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言語に対する理解。そして読書読本の積読

 以前に、言語に対する理解を深めるために積読していた本を5冊取り上げた。他の本と並行しつつ読み進め、ようやく読了。

 「おすすめの5冊」ではなく「残ってしまった手強い5冊」であり、結果として3〜5年ほど積まれていたが、noteで紹介することが読み進める原動力となった。読んで得たものは多かった。自分が意識せずに使用している日本語を言語として見つめることから、自分の言語感を自覚し、自分の思考を見つめることができた。この経験は貴重。5冊のうち『言語にとって美とはなにか』の2冊と『日本語に主語はいらない』の合計3冊は私の中で★4の評価となり、『中動態の世界』は★5(2023年最高の1冊の一つ)となった。読めて良かった。

言語を表出から捉え直す

 もし、吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにかⅠ・Ⅱ』だけを読んだとすれば、私はその本からある一面しか読み取れなかったかも知れない。今回、この本と併せて宇田亮一さんの解説本である『吉本隆明「言語にとって美とはなにか」の読み方』を読むことで、豊かな読書体験を得た。自分の中で「ひとり読書会」の様相を見せ、複数の視点や仮説や意見が脳内再生された。浮かび上がった複数の意見を反芻することで気づきの多い読書となった。解説本を併せて読むことで、読書会の醍醐味を誌上で再現できるという気づきは自分にとって大きかった。

 ひとり読書会を通じて、吉本隆明さんの言語感を、私なりに「鏡」の比喩を使って理解するようになった。最初の段階は「鏡を見ずに自分を表現する」。自分の感情に正直な表現で吉本さんの言う「自己表出」が基本となる。次の段階は「鏡で自分で自分を見ながら表現する」。自分の感情を正確に表現しようとするため、自己表出がうまく伝わるよう吉本さんの言う「指示表出」の工夫が行われる。話体はノンバーバルな手段も指示表出に用いるが、文学体は純粋に言葉を駆使して指示表出を行う。指示表出によって読者の心に描かれた像が「言語による絵画(または鏡に映った像)」と言える。この心に映った像の美しさが、言語芸術たる文学の価値と言える。そして、もう一つの段階として「鏡に映った自分を、他者がどのように見るか、他者を意識しながら表現する」がある。吉本さんがこれを「劇」と言っている。「言いたいこと」が取り繕ってあり、言いたいことにも「表」と「裏」が出てくる。このような視点で文学を捉えることで、見えていなかったことが見えるようになった。

言語を態から捉え直す

 中動態に対する理解も、自分の視野を広げてくれた。まず『日本語に主語はいらない』を読むことで、自分が使用している日本語に対する理解が深まった。構文変化がないのだから英語などのSVO構文でいうSにあたる「主格」は日本語は持たないという主張は、個人的には納得のいく説明であった(学術的な評価は分からないが)。そして、この本を読んだ後に『中動態の世界』を読むことで、より多くの気づきを得ることができた。『中動態の世界』は、中動態を通じて意思に対する哲学的な批判を行なっている点がすごい。「意思することは考えまいとすることである[p.206]」とか、かなり刺激的。そして「意思ある行為としての能動態」ではなく、「自分の本質との重なりが多い能動態」を述べ、その対として「自分の本質との重なりが少ない、自分ではどうしようもない中動態」につなげていく。これが社会を考える上でも重要になると。

 『中動態の世界』でも細江の論文を紹介して日本語にも中動態があったと説明している[p.177-p.196]。しかし『日本語に主語はいらない』を読んだ私にとっては、現在「れる・られる」で表現されているものの多くは、今でも中動態的な視点が強いと思うに至っている。この2冊を併読したことで、『中動態の世界』に対してちょっと口を挟みたくなった。

 たとえばp.206の『「雨が降る」をどう言うか』について。存在はどのように言われうるかについて、ドゥルーズの『意味の論理学』が紹介され、名詞の重要性が説かれている。ここで「せっかくなら中動態にまで言及すれば良いのに」と思う自分がいた。「雨です」の英訳として、「It is rain」と名詞を使う表現はしない。「降っています」の意に変換して、動詞中心の「It rains」にするのだが、p.193-p.194の説明で「これは中動態に近い」と言われて「なるほど」と膝を打つ。しかしその先、もっと中動態に近い表現として、日本語でいう「雨に降られた」がある。これを英語では「be rained」とは言わず「get caught in the rain」というが、これこそまさに中動態。存在に「捕まる」ことで、存在を言い表している。

 もう一つ別のトピックとして、p.78の中動態を用いた「 “Τὸν ἵππον λύεται” = 彼は馬をつなぎから外す(そして彼自身が乗る)」について。これはギリシャ語なのだが、この文章についての説明は、以下のWebページが詳しいのでそちらを参照いただきたい。

私の気づきは、他者の行為が中動態で表現される場合、そこに尊敬の意味も付与されるだろうということ。前述の「Τὸν ἵππον λύεται」で言えば「御方は(自ら)馬をつなぎから外されます」と「れる」が受動ではなく尊敬の意味になるのに近い。これは、中動態というものを知ることで理解が深まる。

 労使を分けて行為を見た場合、労働は「使役のための行為」となるので、能動態(〜のために〜する)か、受動態(〜に〜させられる)しか取らず、中動態にはならない。使役が他に働きかける場合も「労働への働きかけ」となるので能動態となる。一方で、使役する側が自らのために行為を行った場合に、他ではなく内発的・自発的な行為となり中動態が取られる。自分のことであれば、自発的な行為を自分で表現するのは自然だが、他者が取った内発的・自発的な行為というのは、「他にやらせることもできるが、わざわざご自身で行う」ということで自然ではない。位の高い人の行為を(わざわざ)中動態で表すことで、尊敬の意味合いが付加されたのではないかと推測する。

次は読書行為に磨きをかける

 無意識的に使用している母語だからこそ、意識的に捉えなければ見えないことがある。自らの表現(=指示表出)が正しく伝わっているか(=自己表出となっているか)を意識することは、文学につながる。そして、使う態を意識することで、思考停止からくる「意思」や「決断」を避けつつ、自分の本質に近づけるために能動的に「選択」する自分に近づける。この時、他者から見て私の行為を中動態で表すのが相応しいと思ってもらえるような視座を持つことで、人生を劇的なものにできるのだろう。

 さて、積読リストは続く。自分の思考を客観視するには、思考を文章で表し、その文章を批評する必要がある。自己批評の力を磨くべく、読書行為に磨きをかける。と言うわけで、読書行為を磨く本として、次は読書読書を読み進める。本棚を見れば、まだ読み終えていない読書読本が結構ある。その中から、次の5冊として以下を選んだ。

  1. 吉本隆明『読書の方法』

  2. 佐藤優『読書の技法』

  3. 藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』

  4. 齋藤孝『読書する人だけがたどり着ける場所』

  5. 西岡壱誠『東大読書』

 今までいろんな本を読んできた。しかし自分はどこまで「読めて」いたのだろうか。読書を磨くことで、読めていなかった世界が見れるようにならないだろうか。自分の文章が鏡となって映す像が見れるようになり、他者がその像をどう捉えるかを見れるようになれば、そこに気付かなかった自己の深淵を見つけられるような気がしている。


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