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『すずめの戸締り』を観て来ました。

おそらく”ネタバレは含んでいないと思いますが、『この映画を観に行きたくても、忙しくてまだ行けていない。でも近々絶対に観に行こう』と思っている方は、もしかするとお読みいただくのを避けていただいたほうが良いかもしれません。

1週間前にやっと『すずめの戸締り』を観に映画館に行ってきました。

そのときの取り留めない感想を、少し時間をおいて整理したのですが、あまりうまくまとまったとは思えません。

ただこれ以上時間をおいても、その時のリアルな気持ちが薄れていきそうなので、noteに記しておきたいと思います。

書きたいことを書くつもりですが、なぜ”ネタバレを含んでいない”と言えるかというとネタバラシできるほど深くは理解できなかったですし、表面的なストーリーについて言及するつもりもないからです。

震災がテーマの映画である”と少しだけ事前情報を持って見に行きました。
とても素晴らしい映画だったと思います。
涙したシーンがどこだったかは覚えていませんが。

前半は西日本が中心で、海辺の風景が多く、広島県の海のそばで育ち、今でも毎日明石大橋を目にする私にとっては郷愁を感じるシーンがたくさんありましたし、どのキャラクターも魅力的で生き生きと動いていました。
音楽の選曲も、我々の世代には『ムフフ』という感じですね。

テーマである地震については東日本大震災のみでなく、阪神・淡路大震災に関わるような場面もあり、1995年に兵庫県で揺れを経験した私にとっても他人事とは感じられませんでした。

当時社会人二年目で、独身寮は朝方かなり強く揺れたものの、被害はありませんでしたが、出社すると神戸方面から来ている人は誰もいませんでした。

そのうち寮にも被災者の方が入浴に来るようになったりしましたが、一向に東に向かう交通網が復旧する気配もなく何カ月かが過ぎ去りました。

何とか電車やバスを乗り継いで大阪に行けるようになって、崩れた阪神高速道路や中央に亀裂が入った三ノ宮そごうを目の当たりにもしました。
(実は震災直前に大阪の中古車屋さんに車検でプジョー205を預けていまして、何カ月かの後にやっと取りに行けるようになった時のことです。)

自分で写真を撮ることはとてもできませんでした。

私は阪神大震災では幸いにも家族や知人・友人に怪我をした人もなく、トラウマというほどではありませんが、やはり震災というのは映画のテーマとしてはとても重いものだと感じます。

映画が終わったあとシアタールームを出て、みなさん(特にお子さん)が和やかに口にしていたのは、『ダイジンが可愛かった!』なのですが、東日本大震災から11年以上経ち、日本社会全体としては、やっとこのようなテーマの映画を受け入れることができるようになったのだなと思います。

ダイジンはいつもこんなには可愛くないのです

ただ東日本大震災の被災者の方にとってはどうなのでしょうか?

私にとっては少なくとも、『白猫のダイジン』の可愛さや『ミミズ』と戦うアクションを目当てに何度も見に行く映画ではないと感じました。

決して批判的な意味で言っているわけではありませんが、真摯に作り込まれた作品だけに、やはりテーマが重すぎて…

ただもう一度見て確認したいと思うのは、映画での東日本大震災被災地の描写です。
震災直後の炎に飲まれる町の様子もですが、なにより恐ろしいと感じたのは、船がビルの上に乗ったまま年月が経ち、建物にも船にも青々と草木が茂った、一見のどかに見える風景です。

このように震災当時の様子のまま放棄された地域は実際に今でもあるのか?
それとも表面的には復興が進んでいても、奥底では当時のままの闇や絶望は残っているということの象徴なのだろうか?

日本の事なのに知らなかった、いや自分が今まで知ろうとしなかったことにショックを感じ、考えされられました。

人はこれほどの試練を受けても立ち直れるのか?
立ち直るためにどう行動するべきなのか?
はたまた”立ち直る”のというのは元の状態に戻るという事ではなく、
辛いことであってもその経験をもとに違う見方、感じ方をするよう変化することなのか?

どうしてすずめは『死ぬことなんかこわくない!』と言えたのか?
どうして“草太のいない世界”のほうがこわかったのか?

この映画で新海監督が言いたかった事は実はよく理解できていません。

新海監督がどう思い、どのような設定を考えていたとしても、映画の中でキャラクターが言ったセリフは、キャラクター自身の言葉であり、その意味を解釈するのは、それを聞いた観客一人ひとりです。

映画が公開され、観客に言葉が届いたその時点からキャラクターは命を持って一人歩きを始めることになるのですから、設定や構想という“正解”はないのだと思います。


よく考えると同じ経験は一度しかできないし、他人から受ける言葉も一回きりである“現実世界での人間関係”も、映画の中の“人によって作られたキャラクター”の心を理解するのが難しいのと全く同じように、相手を理解するのは難しい、ということに行き当たりました。

なんせ相手がどう考えているかを決めるのは考えている相手自身ではなく、言葉を受けた自分なのですから。

これは言葉を発する側から見ても同じで、どのような気持ちや意図をもって行動したり、話したりしても、完全に理解されることはない。
相手にとって自分の姿は“相手の頭の中で作られた自分”のほうが真実の姿である、ということを心に留めておく必要があると思うのです。

映画はなんども見返せば、”自分なりのすずめ”を突き詰めることもできるし、”新海誠監督の意図”もより正確に汲み取れるかもしれません。
しかし実際の人間関係のように、1回きりしかない“最初”が大切なのだと感じましたので、少なくとも今『すずめの戸締り』は1回観れば十分なのです。

最後に
地震だけでなく、2020年からの新型コロナの感染拡大なども含めて、人類はこれだけ自然からの試練を絶え間なく受け続けているのに、どうして人間どうしで戦争など争いをし、苦しみを増幅させるのでしょうか?

相手が憎いのは、”自分の頭の中で描く相手”が憎いだけなのではないでしょうか?

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