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子どもは、現実と向き合い、新しい物語と出会うための“ノイズ”である

衆議院選挙の争点ともなった、少子高齢化。様々な観点から活発な議論が交わされているが、その要因は多面的で根深く、複雑に絡み合っている。果たして有効な解決策はあるのか、何から取り組むべきなのか、非常に悩ましい。

まず、当たり前のことだが、高齢化そのものは止められない。理由は単純で、現代における医療、社会保障、インフラ、治安等であれば、平均寿命が下がることはないからだ。現にこの50年平均寿命は上がり続け、2014年には男性も初めて80歳を超えた。

また、昨年国内で生まれた子どもは、前年より2万9千人少ない100万1千人と過去最少になる見込みで、8年連続で人口減の状況が続いている。出生率が上がらず生産力が高まらないことには、いずれ社会保障制度が崩壊するのは目に見えている。どんな形で高齢化対策を推進しようとも、少子化問題の解決ありきであることは明確だ。

では、どうすれば良いのか。たとえば、次世代の働き方やライフスタイルを提案する株式会社ワーク・ライフバランスの代表・小室淑恵さんは、「長時間労働をやめれば、日本は変わる」と言っているが、「人口オーナス(財政、経済成長の重荷となった状態)期」に入っている日本において、育児、介護などが障壁にならない、つまりは時間の制約があっても働ける環境が求められるという意見には、一定の説得力がある。

今までは、持てる時間をすべて仕事に投入できる人だけが昇進する社会でしたが、これでは労働者は疲弊合戦になって生産性が下がり、かつ時間に制約のある人のモチベーションは低下します。すべての人が生産性高く、時間内に仕事を終えるモデルに転換していくことが大切です。

出典:「長時間労働をやめれば、日本は変わる」小室淑恵さんに聞く衆院選の争点【少子化・ワークライフバランス】

要するに、小室さんは労働集約型の産業から脱却し、男女の雇用機会を均等にしつつ生産性を上げることが結果的に企業のコストを抑え、ワークライフバランスを整えることに繋がり、家族やパートナーと過ごす時間を創出すると言っているのだ。

一方、フリーアナウンサー・長谷川豊さんは、自身のブログ「保育環境を整えれば子供を産む、という大ウソ」で、女性の社会進出と少子化対策はリンクしない、専業主婦や専業主夫を増やすに尽きるとし、日本の少子化の根本的な問題点は、若い男女が子育てよりも自分のことの方が好きなところにあると提言している。

ニューヨーク近郊のエリアにおける子育て環境と育児・保育状況を紹介しながら、日本の環境、制度は決して恵まれていないわけではなく、あくまで

子供よりも自分の方が可愛いから、子供なんて産んだら自分中心の物語が崩れるから。

出典:保育環境を整えれば子供を産む、という大ウソ

だと言う。一見すると乱暴な物言いだが、「自分中心の物語」という言葉には、問題の本質を紐解く鍵が隠されているように思える。

本稿では、この言葉をヒントにして、「自分の物語」と「子ども」という存在の関係性に焦点を絞り、少子化問題にアプローチしたいと思う。

■ 「自分らしさ」という幻想がもたらすもの

それでは、まずは「自分中心の」という言葉を噛み砕き、「自分らしさ」と言い換えて考えてみよう。私はこうなりたい・なりたくないから、これが好き・嫌いだから、こういう性格・価値観だから…etc。

このように、人は自分で自分を形どりがちだが、この「自分らしさ」こそが苦しい状況を生み出しているのではないだろうか。

たとえば、2014 FIFAワールドカップでの日本代表を例にするとわかりやすい。我らがサムライブルーの1分け2敗という結果に失望した方は多かったと思う。ベストだと思われる23人を選定し、あらゆる状況を想定して臨んだはずだったが、現実は厳しく、選手や監督が口々に言っていた「自分たちのサッカー」は鳴りを潜めた。

元日本代表キャプテンの宮本恒靖氏も言及していたが、ブラジルW杯は「ハイレベルなボールの奪い合い」が特徴的だったという。確かに、素人目でも相手の良いところを潰しにかかる堅守速攻のスタイルが目立つ大会だった。

つまり日本代表は、このメンバー、この戦術で行くという意思や決め事が裏目に出てしまったわけである。もちろん、個人技が全く通用しなかったわけではない。ゴールも奪っている。

ただ、それらは、想像を超えるレベルの相手、思い通りにいかない状況に対峙してもなお、自分たちのサッカー、得意な形にこだわった延長線上にあるように感じられた。

内田篤人選手が攻撃も守備もなくがむしゃらにボールを追いかけていたのは、早い時間で違和感に気づき、誰よりも焦り、必死に対応しようとしたからではないだろうか。

W杯は、自分たちのサッカーはある、だがそんな余裕はない、それならば…と試合の中で柔軟に対応し、質の高いプレーができるチームと戦い、その上で「自分(たち)らしさ」を発揮できるかどうかを試されるシビアな大会なのだ。

あらかじめ用意された「自分たちのサッカー」が通用しないのも当然で、相手に自分たちのサッカーをさせず頂点に立ったチームこそがその結果をもって、自分たちのサッカーで勝ったと言えるに過ぎない。

このサッカーの例で言いたいのは、「自分(たち)の◯◯」がいかに脆いものであるかということだ。自ら規定した「自分らしさ」が、思うようにいかない現実の中で機能しなくなる必然を見せられたわけだが、もちろんこれは他人事ではない。一流のアスリート集団でさえ陥る事態が、より薄ぼんやりとした「自分らしさ」を見逃してくれるはずがない。

「自分らしさ」という幻想を拠り所にして、「自分の物語」をこしらえているのだとしたら、何が起こるだろうか。主体的に見える言葉が自らを客体化し、逆説的に自分を見失わせることになるのではないか。決して他人事にはできない、自分を。

■ 「自分の物語」を生きるとは、どういうことか

自分を知らず知らずのうちに客体化し、他者や情報に囚われているとどうなってしまうのか。このことを比喩的に表現している小説がある。村上春樹の『1Q84』だ。

この物語は、1984年からパラレルワールドのような「1Q84」年に迷い込む登場人物の運命を描いているが、実のところ「自分の物語」を生きるとはどういうことかを示しているように思える。

「青豆」と「天吾」という二人の主人公の生き様はそれぞれ、現実世界において流されて生きる「受動的な受け入れ」から、「1Q84」に迷い込みながらも互いを求めることで運命を切り開いていく「能動的な受け入れ」へと移行していく。

そして、この非現実的な世界「1Q84」に翻弄される中で本物の現実、向き合うべき対象に出会うという構造は、「自分の物語=1984年」と信じていたものこそが危ういもので、自分を見失った世界であることを示唆する。

もうひとり、「牛河」の存在も見逃せない。BOOK3では、青豆と天吾の間に割り込むかのように牛河の章が加えられるが、彼は一般的にいって容貌、人格ともに愛されるキャラクターではなく、準主役という柄ではない。彼は、二人を追いつめた結果「1Q84」に入り込み、これ以外にできることはないと確信して突き進んだが、極めて救いのない形で排除されてしまう。

「1Q84」に迷い込んだという意味では同じなのに、なぜこうも結末が違ってしまったのか。青豆と天吾の邂逅を阻もうとしたことで、牛河は神の裁きを受けたのだろうか。いや、そうではない。

『1Q84』は徹底して青豆と天吾の物語のように見えるが、同時に「私」の物語でもある。人は決して他者の人生を歩めないし、別の人間にもなれない。自らの人生を顧みず他者の人生に介入することで、知らず知らずのうちに理不尽な世界に飲み込まれてしまう。そのことを牛河が身をもって教えてくれているのだ。

青豆と天吾は、最終的にあらゆる受け入れがたいものを受け入れ、自分自身の物語「1Q84」を生きた。言い換えれば、青豆と天吾は人生の目的を見出したことにより、本当の意味で物語の主人公になったのである。だからこそ、青豆は特別な力を持った教団のリーダーの預言を覆すことができ、天吾は新たにオリジナルの小説を書き始めることができたのだ。

ただ、二人の行く末を見守るだけではこの物語は完結しない。『1Q84』では物語の主人公に憑依することなく、また完全に客体化することなく、「私」の物語として読むことが求められるのである。

天吾が『空気さなぎ』ではなく、自らの物語を完成させなければならないように、私たちもまた決して他人事になりえないそれぞれの人生を歩まなければならない。まさに、「自分の物語」を生きるとはどういうことかを示していると言えるだろう。

そして、重要な登場人物が現れる。「小さきもの」、つまり「子ども」だ。『1Q84』において、何に代えても守らなければならないものは、青豆にとっての天吾、天吾にとっての青豆、そして二人にとっての「小さきもの」であるが、この子どもは極めて抽象的な存在として描かれている。

荒唐無稽とも言える設定の中で宿るその命は、ある種の“ノイズ”となり二人の物語を繋げるのだが、このような全くもって不安定なものがなぜ強力な絆を生み出すのだろうか。

一人の物語が二人の物語となり、ここに子どもという“ノイズ”が介入することで、物語は新たな展開を見せる。こう書いてしまうと、フィクションならではの不可思議な現象に思えるのだが、決してそうではない。

むしろ、子どもの存在とは本質的にそういうものだからだ。 もう一度、先に取り上げた言葉を思い出してみよう。

子供なんて産んだら自分中心の物語が崩れるから。

そう、子どもの存在によって「自分の物語」は終わり、この“ノイズ”こそが、新しい物語の扉を開くのである。

■ 物語と現実の間に横たわる“ノイズ”

これはどういう意味か、もう少し具体的に説明する必要があるだろう。奇しくも、思想家の東浩紀が『弱いつながり 検索ワードを探す旅』の中で、この“ノイズ”について解説してくれているので紹介したい。まず、本書のテーマを端的に表している一節を引用しよう。

環境を変え、考えること、思いつくこと、欲望することそのものが変わる可能性に賭けること。自分が置かれた環境を、自分で壊し、変えていくこと。自分と環境の一致を自ら壊していくこと。グーグルが与えた検索ワードを意図的に裏切ること。環境が求める自分のすがたに、定期的にノイズを忍び込ませること。

出典:『弱いつながり 検索ワードを探す旅』
ぼくたちはどこで弱い絆を、偶然の出会いを見つけるべきなのか。それこそがリアルです。身体の移動であり、旅なのです。ネットには、ノイズがない。だからリアルでノイズを入れる。弱いリアルがあって、はじめてネットの強さを活かせるのです。

出典:『弱いつながり 検索ワードを探す旅』

副題になっている「検索ワードを探す旅」は比喩ではなく、予定調和となっているネットの世界を広げるための身体性を伴う移動、旅行を意味する。一見すると、「書を捨てよ、町へ出よう」と提言しているように思えるがそうではない。

むしろ、無限に広がる海を前にして水辺で遊ぶだけでなく、航海に出よと言っているのだ。そこで起こること、感じることが“ノイズ”であり、そのリアルにおける偶然性の産物こそが、ネットの価値を引き出すものであると。

また一方で、東はネットの中で完結する情報収集や世界観に対し警鐘を鳴らしつつ、物語と現実の関係について触れている。

ぼくたちは、検索を駆使することで無限の情報から無限の物語を引き出すことができる時代に生きています。だからこそ、ひとりひとりが、物語と現実の関係について自覚的でなければならない。情報だけの世界に生きていると、乱立する物語のなかで現実を失ってしまいます。

出典:『弱いつながり 検索ワードを探す旅』

ネットによってあらゆる情報が手に入り、他者の思想や生活までもが可視化されるようになったが、それは自分が向き合うべき現実を見失う要因にもなっている。

ネットを使えば何でもわかってしまう、体験できるという錯覚が起き、情報によって他者を相対化することが日課となる。そしていつしか、自分自身と向き合わなくなってしまい、曖昧な「自分の物語」が出来上がってしまう。

これはまさに、『1Q84』における牛河の運命そのものではないだろうか。村上春樹は『1Q84』執筆中にインタビューの中で次のように話している。

「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」 「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです。

出典:毎日新聞インタビュー(2008年5月12日)

『1Q84』は、物語の中で現実を見失わず、他者と向き合い、その世界を広げていくことの重要性を、そして、子どもという“ノイズ”がそのきっかけとなることを教えてくれる。

「自分の物語」だと思っていた不安定な世界に突如現れる、全き現実。男女がそれぞれ見失いかけていた物語を取り戻すために、二人を強力に結びつける存在。

子どもは、向き合わなければならない現実、アンコントローラブルな現象、守るべきものの象徴として、「自分(たち)らしさ」という幻想と閉ざされた世界を取り去る。子どもという絶対的他者により、否応無しにコントロールされた枠組から引きずり出されるのだ。

つまり“ノイズ”=子どもとは、自分らしさで彩られた世界への「侵略者」であり、同時にいつの間にかこしらえられた物語から現実を取り戻す「救世主」でもある。

子どもができることで「自分(たち)中心の物語」が崩れるというとき、それは同時に新しい物語の始まりによって世界が広がることを意味するのだ。

つまり、“ノイズ”は、「自分の物語」と現実との間にあるギャップを埋めるものと言い換えることもできるだろう。

言うまでもなく、ここでの主張は子どもがいない人間は現実と向き合えない、自分らしさという幻想に囚われたままである、といったことではない。伝えたいのは、子どもができることで「自分の物語」が崩れるようなことは決してない、ということだ。

たとえそれが全くコントロールできない(いつどこでどんな子どもが生まれてくるか決めることができない)偶然性の産物であろうと、自身が描いていた人生設計の中で想定外の状況であろうと、現実は損なわれない。

統計や予定調和が通用しない偶然性の産物であるにもかかわらず、子どもは他のどんなものよりも強く物語と現実の距離を縮める。そして、それぞれの物語を生きていた個人は、子どもと対峙することによって新しい物語を生きるようになる。

むしろ、これこそが現実であると思い至るようになる、そんな存在が子どもなのだ。

■ 確率論が通用しない偶然性の産物として

最後に、確率論が通用しない存在としての子どもと向き合うことの意味について論じよう。

東浩紀は、『弱いつながり』の中で自身の子どもを独特な言い回しで表現し、その存在の本質を突いている。

偶然やってきたたったひとりの「この娘」を愛すること。その「弱さ」こそが強い絆よりも強いものなのだ。

出典:『弱いつながり 検索ワードを探す旅』

自分が存在するということはつまり、先祖代々、子どもを産み、育ててきた結果である。ただ一方で、現生人類が誕生してから数十万年も連綿と受け継がれてきたことであるにもかかわらず、「この自分」であることは偶然以外の何物でもない。

そして子どももまた偶然やってきた存在だ。でも、それでも、「この子」以外の選択肢など考えられない。これは非常に不思議な現象と言える。この状況こそが現実と向き合い、受け入れるということなのではないか。

だからこそ、子どもを通して得られるあらゆる経験は替えがきかないのだ。他者が追体験できる種類のものではない。特に母親は四六時中、未体験の出来事と遭遇し、奮闘するわけだが、これは言葉にし尽くせないものがある。子育ては大変だというとき、大変であることは間違いないが、「この子」と向き合う大変さは決して体験できない。

もちろん、それはポジティブな体験においても同様で、子どもがいかに愛おしく、他のどんなものからも得られない感情を与えてくれるかも体験できない。我が子の温かくて小さな手のひらや、つややかでやわらかい頬の感触が、どれだけ人の心を癒し、幸せな気持ちで満たすか。

実際に筆者が感じたことをこのように共有することはできる。そうなんだろうなとは感じてもらうことはできる。それが全く無意味であるとも思わない。ただ、それらはすべて「私」の体験、現実、物語でのことなのだ。

世の中にはさまざまな専門家や識者がいて、子育ての秘訣やより良い家族の築き方を学べる諸サービスが存在する。それらがまやかしだなどと糾弾するつもりはないが、本質的には子どもはあくまで統計や確率論の類では語れない。

統計上、確率論的に、医学的な見地では、こうした方がいいと思いますよ、という話でしかない。それは子どもを産み、育ててきた諸先輩方の生の声も同様で、それがすべてというものではない。

だからもし、ありとあらゆる情報が溢れる現代において、子どもを産むことや育児にネガティブなイメージを持ち、感情的に受け入れられない状況に陥ってしまっているのだとしたら、それらはおしなべて曖昧なものであり、あなた自身のことではないと言いたい。

冒頭でも述べたが、確かに少子高齢化の問題は根深く、アベノミクス「3本の矢」の本丸となる「成長戦略」の決定的な施策は見えていない。だとしたら、どうやって未来に希望を抱けばいいのか。子どもなんて産んだら大変になるばかりじゃないか。そういう話になるのも無理はない。

女性の活躍促進や高齢者雇用の活性化、子育て家庭を支援する諸制度や働き方の見直しなどは間違いなく必要であるし、ぜひ各方面で推進していただきたいと思っている。ただ、それだけでは足りないし、それ以前のところに本質的な問題がある。

現状を正しく把握することや、事前に知っておくことは大切である。そのためにネット上でさまざま情報にアプローチすることは賢い生き方かもしれない。これ自体は否定されるものではない。

しかし、繰り返し言っているように、現実と物語、ネットとリアル、この関係性と自分の立ち位置、向き合い方を見失うきっかけになってはならない。確率論の世界や借り物の物語に囲い込まれてしまうと、その中からなかなか出てこれなくなるからだ。

少子化問題を解決する鍵は、“ノイズ”を「自分の物語」にとっての異物、邪魔者と捉えるのではなく、それがどんなものであろうとも目の前の現実と向き合い、新しい物語の世界を広げていくためのきっかけ、機会と捉えることにある。

「どうすれば子どもが増えるか」という議題は、施策ありきではなく、「どのようにして個人が現実と向き合い、新しい物語を紡いでいくとよいのか」と言い換えるところからはじめるべきなのではないだろうか。


※2015年1月にYahoo!ニュース個人に寄稿した文章です

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