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「簡潔に書けないのは頭が悪い証拠」という嘘

簡潔でない文章を読めないのは頭が悪い証拠

「簡潔に書けないのは頭が悪い証拠」とは、自分の気に食わない「長い文章」や、自分にとって「難解な文章」に対して宛てられる常套句。
 長い文章にも、内容がまったく伴わないものもあればそうでないものもある、とか、高度なものを記述するにはそれなりの文章量が必要である、といった表層的で簡単な反論はせずに、その仕組みに踏み込むべきである。

 およそ文章というものは、「読者」を意識して書かれなければならない。そして、一般に公開される文章を読む「読者」は、必ずその文章が自分だけにではなくn人に対して記述されているということを意識しなければならない。ところが、このことに無自覚な破廉恥な読者がきわめて多い。

 高度な本(や記述)であっても、読者が「著者と同じくらいのレベル」である場合もあれば、「著者の記述になんとかついていけるレベル」である場合もある。別の分野を主戦場としている読者が、知識の幅を広げるために「チャレンジ的に」読むのかもしれない。
 そこで、まっとうな著者(表現者)ならば、高度な内容を記述する際にも、単にその部分だけを書くのではなく、必要に応じて基本部分をあらためておさらいしたり、導入として「考え方」を記述したりするだろう。何もむざむざ、読者層を狭めたり、より少ない人にしか理解できない書物を作成しなければならない義務などないからである。
 当然のことながら、高度な知識を持つ者が、それほど高度ではない読者層をターゲットとして文章を記述することもある。小学生向けの算数ドリルを小学生が作成するという奇異な文化は、日本にはない。
 各々の読者は、この事情を当然理解し、自分に必要となる書籍の必要となる部分を選択的に読めばよかろう。

 だが、大衆にとって、これは困難な作業らしい。
 彼らは平気で次のように口にする――「この本のこの部分は無駄だ」「君の発言は冗長だ」「もっと簡潔に書け」「レベルが低い内容だ」。そして掲題語等の発話と同時に、「自分にとって都合が良くないものを作成する者=自分にとって都合が良くないものしか作成できない者=能力がない者」という不適切な推論を暗に行う。
 一般に公開されるある文章が、必ず自分宛てに書かれている、書かれていなければならない、と早とちりするのは、頭が悪い証拠である。
 同義語に「本当に頭の良い人はわかりやすく書く」がある。

「教養としての読書」(追記部分)

 少々長いが故に、主文と従文との関係が曖昧になることから、果たして著作権法上の「引用」に当たるのかに関して、わずかばかりの不安が残るものの、以下、引用する。

【もうあと何年もしないうちに、あの「バスチーユ奪取」の叫びが未知の社会的変動をフランス全土に波及させようとしていた革命前夜のパリで、ダンテの『神曲・地獄篇』の散文訳を幾年もかかって推敲しながら、その古典的教養の豊かさと弁舌の爽やかさ故に文壇の注目を集め、啓蒙時代と呼ばれる十八世紀フランスの文化的支柱ともいうべきヴォルテールの死後、名高い『メルキュール・ド・フランス』誌の文芸時評を担当しはじめたアントワーヌ・リヴァロール Antoine Rivarol(一七五三-一八〇一)は、もし彼が、ベルリン・アカデミーの懸賞論文に応募して第一等となった『フランス語の世界性をめぐる論述』Discours sur l'Universalite* de la langue franc*aise(一七八四)の著者でなかったとしたら、貴族に絶望して人民による王政維持を主張する奇妙な「王党派」の論客として、革命を呪い、人権宣言を愚挙ときめつけ、当時としては独創的な「フランス語辞典」の構想をいだきつつも亡命さきのドイツで客死せざるをえなかった挿話的な人物にとどまり、人びとの記憶から次第に薄れて行ってしまったに違いない。】(蓮實重彦『反=日本語論』ちくま学芸文庫 p202-203、リヴァロール神話より。*部分は引用者によるフランス語表記の意)

 この美しい筆致でしたためられた文章から得られることは、リヴァロールなる人物が「人びとの記憶から次第に薄れ」ずにいられたという偶発的かもしれぬ特権への記憶ではなく、もっと単純に、蓮實重彦氏によるこのたった1つの文が、500文字近い文字によって構成されているという事実への子供らしい驚嘆である。

 なるほど蓮實重彦氏は独特の文体で書かれるし、その明晰性に裏打ちされた修辞学上の作法によって、一文がかなり長いことが多いといまさら確認するまでもないが、原稿用紙1枚をゆうに超えるほどともなれば、そうそうお目にかかれるものではないだろう。
 しばしば大衆によって口にされがちな「本当に良い文章は簡潔に書かれている」といったような陰鬱な虚構に対するこれ以上ない明白な反例として存在するかのごとく、引用した文は流麗な文体によるものというほかなく、かつ、表現すべき内容をほぼ必要十分に表してもいる。

 もし引用した文章を、少しでも冗長であるとか、晦渋であるとか感じるのだとすれば、それは読者がいかにも「読書」という習慣から離れすぎてしまっているか、あるいは大学生水準に到達しない程度に平易すぎる文章にしか触れてこなかったのであろうことが容易に看過されてしまうであろう。
 こういった文章をごく自然に楽しみながら読み、少々の感想を述べることを苦としないレベル、それが日本人として最低限の教養レベルだろうと、ふと感じた次第である。

本当の頭の良さ

 大衆が生み出す架空の概念の一つ。

 頭が良くもない人がなぜ「本当の頭の良さ」をしゃあしゃあと語れるのかはともかく、「本当に頭の良い人」にどのような性質が付与されているかを把握することを目的として、07/05/03 22:00、Googleで「"本当に頭の良い"」を検索し、膨大ににヒットした16,000件のうち上位200位中から、性質等を表すフレーズを以下にピックアップしてみた。

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