見出し画像

【名言愚行】(解説)制度としての名言

この記事は、「とつげき東北」が、かつてweb上に公開していた『名言と愚行に関するウィキ』を復刻するマガジンの一部です。

ちまたで「なんとなく正しい」とされているけれど、実際には全然正しくないような言葉を辞書風に取り上げたり、時には解説記事をつけたりするものです。

詳しくはこちら。

「こう書いてある」

 書かれたモノ、とりわけ非個人によって活字にされたモノに付随する、ある種の権威性に頼る言葉。

 先日筆者が、いつもよりも遅れて職場に向かったとき、駅でエスカレータを急ぎ足で歩いていたときのことである。前を見ると、整然とエスカレータの 左側に並んで止まっている人々がいる中、一人だけ、山歩き用のリュックと思しき大きな荷物をどっしりと左側に置き、エスカレータの右側に立ち止まっている 50過ぎと思しき男がいた。明らかに邪魔である。
 その男の真後ろまでたどり着き、「すみませんが、少しあけていただけますか」とたずねると、その男は「エスカレータは歩くところではない」と主張しはじめたのである。「申し訳ありません、急いでおりまして……」と言ってみたが、「壁のところの注意書きに書いてある、急いでいるなら階段を使えバカ!」と、一切譲る気配がない。

 ああ、妙な手合いにつかまった。
 筆者は当然のことながら、一瞬にして、この男の「論理」への反論を頭で練った。
 すなわち、
・「エスカレータ歩行はダメだ」という、某私企業が壁に掲げた規定は、根拠法令等を持たず、単なる1企業が個人に対して行う「お願い」であって、個人がそれに従う義務はない。
・同時に、それに基づき他人の不法でない行為を制限することはできないが、一方で公然と相手を「バカ」と呼ぶことは不法行為(侮辱罪等)に当たる可能性が高い。
・基づくものは法令等ではなく「常識」になるのだから、常識に基づくのであれば、エスカレータの右側に立ち止まる行為もまた、非難されるべきである。
・エスカレータを歩くのが禁止されている理由が「危険」等に基づくのであると推測すれば、階段等を走りあがること等も、同様の理由で禁止されるべきであろう。
・だいいち、「壁のところに書いてある」と男が指した張り紙を見ると、「エスカレータでの歩行は危険を伴いますのでご注意ください」であった。注意すれば良いのである。
等である。

 だが、これらをそのまま口に出して「反論」するわけにはいかない。なぜならば、
・平日から山に登っている無職らしき男が、いきなり暴れだしたりするタイプの危険人物である可能性がある。
・逆に筆者はスーツ姿の真面目そうな青年であり、相手に「危険人物」と認識される可能性は低い。
・そのような感情が双方に働くことに相手はうすうす気づいていると思われ、こちらがもし少し感情をあらわにしても相手は引かない。
・面倒ごとになると職場に遅れる。
 したがって筆者は、最善の策としてあくまでも低姿勢を貫いたのだが、この男はわざと通れないように位置取るなどし、結局エスカレータの上まで通ることはできなかった。権力的観点から見て、彼の圧勝だったわけである。

 さて、ここで注目すべきなのは、「書いてある(と彼が誤解している)こと」に基づき、あくまでも彼は彼の「善」にしたがって行為したという点である。おそらくは正当性において優れていなかったはずの男の「論理」 が、一枚の「張り紙」の存在によって燦然と力を増したことが重要なのである。その証拠に、彼はすでに、単に「自分には右側に立ち止まっておく正当な権利が ある」という満足だけにとどまらず、「『書いてあること』に反する人を『正当な=善に基づいて』妨害し、相手に不快な思いをさせることができる」という虐 待願望までも充足させつつあるのだ(筆者はいらいらさせられたが、それも含めて、彼が全ての目的を達成し、快楽を得て、完勝したという事実は認めねばなるまい――決してここで、「彼は普段は誰からも相手にされない男」「非常識な男」「彼の論理は間違っていた」などと貶すことで、負けた事実を消去してはならない)。

「書いてある」ということに対して、しばしば人は脆い。誰かが壁にイタズラで「喫煙禁止」という張り紙を掲げておくだけで、そこを訪れた人々は、その場で喫煙している人を「白い目で見る正当な権利」を手にしたような錯覚に陥るのである。
 同様の形式は、一般には「テレビでやっていた」にも該当する。

コンプレックス

他人の気に食わない言動・行為に対して、当該行為等の「背景」に、イメージ的な「悪さ」を設置するために多用される常套句。
 同様の使われ方をする言葉として、「信者」「妄想」「宗教」等がある。

 全ての幸福や 災難が「前世の行い」のせいであると「説明」されるのと同様、「彼の行為はコンプレックスによるものだ」という説明手法は、霊魂崇拝主義者的な行動である。すなわち、 その検証不可能性に頼り、相手の「深層心理」等を「見抜く」かのように用いられる。そしてそれは、検証不可能であるとともに、解釈によっては結果論的に 「真理」ともとれる(とりたいという欲望を満足させられる)がゆえに、偽りの「真理」として大衆の間に流通する。

 イチローがあんなにも野球で活躍しているのは、また、キムタクが格好つけるのは、彼らにコンプレックスがあったからなのだろうか。頭が良い人間が才能を発揮することは、コンプレックスからなのだろうか。仮にそうであったとして、「コンプレックスだ」という恥ずべき言葉を投げつけることが本当に適切なのだろうか。それによって相手の出した結果が変化するのだろうか?

 この名言は、単に「優れた人」へのあてつけとして機能するばかりではなく、無能向けの腐敗した理想世界を準備するとともに、彼らが無能たる道徳的権利をも捏造する。

(解説)制度としての名言

 「不自然さ」と無縁ではいられない言葉たちが、ドラマや映画において典型的に体現されるならば、一種の演劇めいた「セリフ」にこそ、不自然さが内在すると考えてみてもよい。日常生活の上で体感可能な「セリフ」とは、すなわち「名言」である。誰しも幾度となく聞いたはずだ。あんたのためを思って言ってるのよ、ライオンはウサギを追うときも全力なんだよ、といったような、あからさまに不自然で陳腐な言葉を。
 ここでは名言とは、
・執拗なまでに繰り返される定型的な言葉
・何がしか感動的なもの、心を動かすものとして機能するとされる言葉
・理由なくその真理性が成立するかのごとく流通している言葉
の要素を満たす言葉であるとしよう。
 名言の中には、真実を含むものと、真実を隠すものとが存在している。また、一つの名言が各種の状況によって本当だったり嘘だったりすることもある。最近では「ことわざ」など流行らないが、昔の名言はことわざという形でいわば名言目録に収められていたのであったが、それぞれ相矛盾する事実を表すものが数多くあったことを思い出すと良い。
 しかしながら、名言の大半が真実を隠すものであることは確認しておきたい。あえて真実を含むものと隠すものとの量的差異が生ずる理由を述べるならば、真実は真実であるというだけで支持されるために、通常は名言という形で厚化粧を施して流通させる必要がない、ということが挙げられよう。ニュートンの運動方程式ma=Fは、相対的に「真実」であったがゆえに名言にならなかったように。
 名言は次のような効果を持つ。
・論証したり実証したりできないが納得させたい場合に、「皆が言っていること=妥当なこと」としてその主張を受け入れさせる効果
・名言を放つことによって、(主として道徳的な)感動や尊敬を誘う効果
・名言の話し手と聞き手との間に「教える者-教えられる者」という相対的関係を作り、指導力や権力関係を演出する効果
・事実を隠すために、ひとつの予定調和の世界を信じさせる効果
 援助交際をやめさせたい場合に、「親からもらった体を大切にしなければならない」といった名言が使われる状況を考えてみる。「体を大切にしなければならない」には、当然ながら何の根拠もないし、援助交際が「悪い」という理屈などおよそまっとうなリベラリストが使うものではないが、この名言はそうした理屈を飛び超えて作用する。それは、援助交際の主役たる者たちが既にこうした言葉のコミュニケーション、つまり「名言のやりとり=セリフのやりとり=演劇的コミュニケーション」をすることによる受益を、「自然な」ものとして体得しているからに他ならない。不完全な形ではあれ、6歳にして私がそれを半ば身につけていたように。
 わが子を援助交際から引き離そうと名言を放つ親は、何がしかの意味で道徳的ないし感動的な光に包まれ続けることとなろう。そして重要なことだが、名言は、仮にその内容がまったくのでたらめであったとしても、実際に「心に染みる」あるいは「心を入れ替える」者がいて、秩序を維持することに貢献することが少なくないという事実があることだ。
 名言、それを用いた演劇的なコミュニケーションは、秩序を維持するための一種の「制度的なもの」として機能する。
「制度的なもの」を前にして、4種類の人間がいると、いささか乱暴に分類してみよう。
  

表1:タイプ分類

画像1

表2:タイプ別の例示

画像2

※Aが多い制度とは、必然的に、それによって各種の利益を享受できる人が多い制度である。

 以下、表の分類に沿って話を進める。
 演劇的コミュニケーションが成立する関係は、AとBとCとの間での関係である。AとBはそれが劇であることを認識せずに登場人物になりきり、時として感動を覚えながら、制度を受け容れてゆくことになろう。Cはそれを醒めた目で見ながら、AとBのやり取りに参加したりしなかったりするだろう。一方で、Dだけは演劇に参加できない。
 学校教育や社会教育が目的とするものは、不良を更正させるがごとくにBをAにすることであり、あわよくばDをAまたはCにすることである。例えばDであっても、「全ての制度を信じない」わけではなく、ある特定の名言が通用しないだけの可能性もあるために、あの手この手の名言を用いて説得し従順にしようとする。道徳的名言が、感動や連帯、それを信じることそのものの価値だけでなく「人間的な成長」といった別の餌を用意しているように。
 平成13年6月に起きた付属池田小学校乱入殺傷事件を思い出そう。宅間守元死刑囚(死刑執行時の姓は吉田だが、ここでは宅間と記す)が、当該事件名にもなっている付属池田小学校(優秀なエリート校である)に侵入し、児童8名を殺害、他にも教員を含め十数名に傷害を負わせた事件である。事件の内容も去ることながら、動機が「むしゃくしゃしていた」「エリートを殺したかった」並の「自分勝手な」ものだった上、裁判長や傍聴席の遺族に暴言を吐いたり、「殺して後悔は全くない」「反省していない」と表明するなど、各種の意味で衝撃的な事件であった。平成16年の9月に死刑が執行されるまで、謝罪の言葉は一切なかった。このような振舞いは、およそ通常演じられる「べき」演劇ではない。だが、ひとまず感傷的な物言いは避けよう。彼をかばったり擁護したりするつもりは全くないが、かといって私は彼を非難できるほど立派な人間でもない。
 彼はいわば、Dタイプの人間だったのである。彼の心境の全てをここに書くことは適切ではないが、彼は最初に、彼の実存における矛盾、すなわち貧富や能力の差の前に放り出される「人はみな平等です」といった特定の名言への反発から葛藤したのではあるまいか(煩悶するということはすなわち、Bであるということである。「自殺は卑怯だからしてはならない」という言葉が抑圧する対象は、B以外ではあり得ない)。そして、反復される名言と現実との膨大な乖離=矛盾を目にするうちに、あるときふと、この制度的な「社会の欺瞞」を看取する。
 社会には欺瞞と呼ぶべきものがいくらでもあり、むしろない方が珍しいのだという――Cタイプが持つ――得心が前もって彼に用意されていなかったことが、彼をBからDへと突き落とすことになる。世界あるいは世間が自分に対して行う全ての制度的な振る舞い、Aになることを強要する振る舞いに対して、吐気にも似た嫌悪感を持っただろう。自分には受け入れ難い「嘘」を、周囲が平然と受け容れてしまう無様さを見てというだけではない。世の中にはAとBしかいないのだと無邪気に信ずる「先生」や「親」あるいはそれを報ずる「マスコミ」が、子供だましの名言でAになるようそそのかすとき、Dはしばしば侮辱されたように感じ、孤立し、悪意をもってそれらと対立するに至るのである。
 これは人間の本質的な制度への反動であって、「異常」でも「病気」でもない(もちろんフーコーが示したとおり、こうした挙動を「異常」「病気」に仕立て上げるための制度が、監獄と精神病院なのだが)。
 マスコミは件の事件の際の宅間氏の挑発を「そのような発言が出ることは、信じられない」といった素振りで扱った。世の中にはAとBしかいないはずだという態度を改めて繰り返すことで、全体としての名言=制度の基盤が揺らぐことを防ごうとしたのである。人々に必要とされることになるだろう名言めいたもの、流行を偽造して流布することがマスコミの主要な「財源」となるからであるが、しかしここではマスコミについて細かくは触れないでおこう。
 いずれにしても言えることは、宅間氏が被害者を挑発してみせた気持ちを「理解できない」教育者や親がいるとすれば――遺族は、憤りのせいでそのようなことは考えられないのだと想定して除外するとしても――、愚昧と言うほかないということである。事件をめぐって繰り返された多数の「名言」がたった一つとして真実を語らなかっただろうことと独立に、宅間氏は「自分と同じ気持ちの人がやっと見つかった」といったファンレターをいくつも手にし、獄中で結婚した。
 世の中にDはいないこととして事態が進行しているにもかかわらず、劣悪な殺人鬼に届くファンレターという皮肉な形で、疎外され隠蔽されているDの存在が浮かび上がる。これに対して、制度側がとった策は気が遠くなるほど無防備で、相変わらずの「信じられない」の一点張りだったように記憶している。「犯人」の思考や感情を分析できずに、「再犯防止」などといったことが、一体いかにして可能なのだろうか。
 私たちの多くに今必要なことは、BがDに転落することを防ぐための新しい方法論を打ち立てることでもなければ、BやDをAにするための新しい名言を産み出すことでもない。そのような「社会的に必要なこと」を実践してみせることは、このつまらない名言=「制度」に加担し溺れることを意味する。かといって制度性の欺瞞を告発し、根底から壊そうと奮闘するのも滑稽である。強力な既存の制度に反発して脱-偏差値や脱-資本主義を唱える者たちが常に、予想通りの、様式美的なまでの凋落ぶりを演じるさまを振り返ると良い。そうではなく、演劇=名言という「制度的な」やりとりが存在することをよく把握し、その中において、いかにその基盤をずらして遊ぶことができるか、が問われなければならない。
 何度も何度も言われる「皆が言っている同じギャグ」に私たちが辟易とさせられるのと等しいセンスをもって、無情なまでに反復される退屈な「名言」の数々と向き合わなければならない。恐らくは、そのように立ち向かわなければ、何がしかの悲劇は必然的な過程を経て繰り返されることとなろう。

(※注記:『名言と愚行に関するウィキ』復刻版マガジンは、無料記事を多く含む予定です。モチベーション維持のため、応援、ご支援をいただけると大変うれしく思います。)

――――――――(以下、ご支援用)――――――――

ここから先は

29字 / 1画像

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?