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淀城~京都を守った要の城

 動力を使った乗り物が発達する前、水上交通は人や物を運ぶための大動脈となりました。河川同士の合流点などが交通の(つまり軍事的な)要衝とされ、城が築かれた例も多々あります。

 京都盆地の南西、宇治川・桂川・木津川が合流する地点に築かれた淀城はその代表例です。


秀吉時代の「淀古城」

 豊臣秀吉の時代までは、現在の城址公園の北数百メートルにあったとされます(淀古城)。現在は妙教寺という寺院です。

淀古城の遺構はほぼ残っていない

 秀吉は、淀城を側室の茶々の居所として与えました。そのため、彼女には「淀の方」「淀殿」という呼称があります。

江戸時代の大改築

 現在みられる淀城は、江戸時代初期に築かれた姿です。元和9(1623)年、家康の甥である松平定綱が築城に着手しました。

 現在残っているのは、本丸と天守台の石垣のみですが、その威容は十分にしのぶことができます。

天守台の石垣
二条城の天守が移築されたという

 堀は大半が埋め立てられましたが、本丸の南と西の内堀は今も水をたたえています。

櫓台から水堀を見下ろす
内堀ごしに城を望む

 城址公園には「與杼(よど)神社」が鎮座しており、その脇にも石垣が見られます。

生かされなかった淀城

 淀城は軍事的要地であり、幕府の信頼厚い譜代大名が淀藩主になりました。享保8(1723)年からは稲葉氏が入封し、幕末に至ります。

 余談ですが、稲葉正知は淀藩主になる前、下総佐倉藩主でした。佐倉城も紹介したことがあります。

 さて、慶応4(1868)年には新政府軍と旧幕府軍との間で鳥羽・伏見の戦いが起きます。劣勢となった旧幕府軍は、淀城に籠城しようとしました。しかし、淀城は藩主・稲葉正邦の意志に反して旧幕府軍の入城を拒否(藩主は当時江戸にいた)。旧幕府軍が敗退する一因となりました。

 淀城は西国の要として幕府に重視された城郭ですが、皮肉にも幕府引導を渡す役回りとなったのです。

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