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映画「笑いのカイブツ」感想/それでも、君は笑った

↑原作小説の感想文はこちら

生存戦略

2023年11月28日、大阪にある映画館「シネ・リーブル梅田」にて映画『笑いのカイブツ』先行上映会兼舞台挨拶が催された。私は本公開前に観られると知った時からこの日に感謝して、予約開始時刻真っ先に座席予約ページに駆け込み躊躇せず席を取った。予約後暫くして、座席は全て埋まり躊躇わなかった自分を褒め称えた。
上映前に、滝本憲吾監督、主役の岡山天音氏、原作者のツチヤタカユキ氏による舞台挨拶が開かれた。3人とも自分らしさをさらけ出しており、以前見たツチヤ氏の毒々しさもそこには存在した。
そして、私は昨年終わり頃に三十路に突入したが、20代でこの映画を鑑賞できる機会があって良かったと感極まった。また、年末にはM-1グランプリの決勝が放送されたが、それも映画とリンクする奇跡が発生した。


きっと、何者にもなれない

この映画を初めて鑑賞してすぐに私が好きなアニメ『輪るピングドラム』が浮かんだ。しかし、それを感想として述べていいのか悩みX(この名称、好きなれない)ではもう一度見た方がいいと呟き逃げてしまった。
「ピンドラ」本編では主人公たちがそれぞれの願いのために奔走して最悪の事態を防ぎ世界を書き換えたが、それでもそれぞれの理想の世界は構築されず物語が終わった。ツチヤ氏も自身が信じるお笑いの為に奔走したが「何者」にもなれず、「笑いのカイブツ」の物語は完結している。
しかし、何故そのような感想が直ぐに浮かんだのかと言うと、映画の終盤ツチヤタカユキが何者にもなれず、全てに絶望して身を投げたが失敗に終わり実家に戻りおかんに「お笑いを辞める」と宣言した後、おかんがクスッと笑みがこぼれた時に「ピンドラ」の劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』の主題歌『僕の存在証明』の歌詞の一節

救済はない 崇拝もしない
それでも君は笑った

やくしまるえつこ『僕の存在証明』

を思い出したからだ。

見終わって暫くして、この映画は悪い方に改変されてはいないが「全年齢対象」だと痛感した。原作の性描写のみならずコンプライアンスや倫理的問題に触れる表現は削ぎ落とされている。上映時間の問題もあるが、どうしても外してほしくない部分が私の中には残念ながら存在した。
けれども、原作ではどうしても章ごとにエピソードが紹介されて時系列が分かりにくかった部分は漫画版と同じく統合されていた。その分、ツチヤタカユキの解像度が上がったのも事実。得体の知れない男が取っ付きやすくなったのは助かった。
だが、いつの間にか切り替わっている部分が多々あるので1回だけで済ませるのには頭の中で整理がつかなくなった。また、この映画では吉本興業あるいは松竹芸能所属芸人が多数出演しているだけでなく、漫才指導でも携わっていた。だが、全てを理解できなかった悔しさが込み上げて本公開後に鑑賞すべきと決意した。

きっと、何者にもなれる

晴れて本公開され、私はもう一度鑑賞できた。2024年1月8日、その日は映画のパンフレット獲得と出演者の再確認も兼ねており、上映後に滝本監督とサプライズで主役の岡山氏による舞台挨拶兼質問会が開催されていた。私も質問に参加しており、他の人が演技や撮影について質問を投げ続ける中、私は唯一別の話題を尋ねた。

鑑賞し直した際、「木村祐一」、「藤井隆」、「女と男」、「ザ・プラン9お〜い!久馬」、「たくろう赤木裕」、「ギャロップ毛利大亮」、「アルミカン赤阪侑子」、「ハイツ友の会西野」、「シャンプーハットてつじ」など様々な芸人が出演していた。彼らが何者なのか分からない人のために、別記事で掘り下げる。
そして、演者ではないがあの「令和ロマン」がベーコンズの漫才指導を担当していた。それが奇跡であり私の質問の話題であるが、彼らの詳細は同じく別記事で掘り下げる。

そして、2回目の鑑賞後に気が付いたのだが、劇中でツチヤ氏のモノローグつまり「カイブツ」の部分が掘り下げられていない。原作ではツチヤ氏の内面が強調されていたが、映画ではツチヤ氏本人が様々な世界で駆け巡ることに焦点を当てていた。パンフレットではコロナ禍で撮影が中断してしまい、その最中で監督が映画を再構築したと記述されていた。それは納得した、ネットニュースで撮影中に感染者が出てしまったと記事が上がった時の私は本当にショックだった。だから、今作品が無事に公開されることをずっと祈っていた。小説には小説の良さが、映画には映画の良さがあると言うが、以前の私ならその折り合いが付けられなかった。出来るようになった私は大人になったと言っていいのだろうか。
しかしながら、主役のを演じた岡山氏は傍から見れば獣のようなツチヤタカユキを本人そのもののように演じた。友人のピンク演じたを菅田将暉氏も、元恋人のミカコを演じた松本穂香氏も、おかんを演じた片岡礼子氏も、ツチヤを導こうとしたベーコンズの西寺を演じた仲野太賀氏も、ツチヤに近付こうとしても絶対に相容れない境界線をヒンヤリと伝えている。しかしながら、彼らは前述した「それでも君は笑った」の中に入っている。
西寺の相方水木は元ネタであるあのお笑いコンビのメンバーそのものに見えた、いや本人だった。ツチヤに戸惑う芸人兼放送作家氏家を演じた前原滉氏が現実の恐ろしさを淡々と存在感を魅せていた。

前述の出演した芸人も私が知っているキャラクター性を排し、映画の世界に生きている登場人物に染まっていた。何者にもなれる俳優達の中で何者にもなれないツチヤタカユキという役柄、世界の残酷さが映し出されていた。けれども、居酒屋でツチヤがピンクとミカコと再会したシーンは忘れられない。あれは、映画オリジナル展開だが小説のままで話を進めるにはしんどかった。前述した映画でしか見せられない魅力とはそこに生きている。
また、映画ではツチヤが希望を胸に抱いて飛び込んだ業界から離れてしまう展開が小説よりも目に入りやすかった。鮮明に映し出される「人間関係不得意」が俯瞰で見られ、それを見ている自分も過去の失敗を内省した。前述した境界線はある人たちでもツチヤへの愛はあった。でも、ツチヤはその愛を自分で受け止める資格が無いと放棄してしまった。ピングドラムは存在しなかった。

全体を通して、エモーショナルだったり感動ポルノだったりする展開へ落とし込める雰囲気が存在しなかった。劇伴も同じような情調でエンディングもインストゥルメンタルに整えられ、もしそれに歌詞があるという意味がある形に押し込められたら全てがおじゃんになっていただろう。
「エモい」と片付けられる世界で全ての者ものが生きられるわけがないが、そういう世界を考えてしまうのも「発想の貧困」なんだろう。
今世界もとい日本は大変な目に遭っており、私はそれ憂いており無力な自分に情けなさを感じている。だが、ツチヤタカユキが生きている世界から背けてはいけないとも胸に刻んでいる。そして、彼に感謝の意を述べたい。

存在証明

今回は感想文にかなりの時間を掛けてしまったので、執筆中に起きてしまった悲劇が脳裏から離れられない。確かに、メディアミックスと言うのは諸刃の剣で今作にも一抹の不安を覚えていた。けれども、先行上映会の舞台挨拶でツチヤ氏が語っていた「マイルドな表現になっているのかと思っていたら、尖り散らかしたまま映画化されている」という趣旨の発言をなさっていたのを忘れられない。前述で改変された部分はあれど、大元は崩されておらず、成功者ではなくて敗北者の物語として残されている。
だが、作中終盤で描かれたツチヤの情景は一種の希望かもしれないと私は信じている。物語と人生は必ず混じり合う存在ではないが、「きっと、何者にもなれない」は決して絶望だけに完結するフレーズではないと再認識した。

さて、ここまで長々と失礼したが小説だけでなく映画の「笑いのカイブツ」の感想文を書いてどうしても自分が書きたい内容がある。ただそれはどうしてもこちらの感想文に差し障るので前述に触れた別記事に後日纏める。

最後にXとInstagramに載せた感想文を載せてお別れとしよう。


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