チャイメリカ 大千穐楽を終えて

2019年2/6から世田谷パブリックシアターを皮切りに上演中だった舞台、「チャイメリカ」が、先日3/10、福岡市民会館にて大千穐楽を迎えた。

幸いにも追加公演の9日と両日共に観劇する機会に恵まれ、全公演中一番大きな会場で1800名近い観客の一人として、チャイメリカカンパニーの集大成を見届けることができたことに、まずは感謝したい。

さて、ひと月ぶりのチャイメリカだ。掛け合いのテンポや細かい台詞など分かりやすい変化、会場が違うことで舞台装置の動き(主にスタッフの方の手動部分)など、違いを発見する楽しみを味わえた。

冒頭は、会場の広さの違いか若干声の響きが抑え気味に感じる部分もあったが、徐々に気にならなくなるくらい引き込まれたし、演者の方で調整されたのかもしれない。

おそらくこのノートを読まれている方はご存知の通り、物語冒頭のジョーは、19歳である。上司のフランクの言う通り、酒も飲めない歳だ。

あの事件の惨状を目の当たりにして、自らの胸をギュッと掴み、「心臓が変な感じ」と形容する彼は、今の私の半分ほどしかまだ生きていない。

福岡公演では、特にジョーの幼さ、そして自分が探していた男の名が戦車男ではなく、戦車の中の兵士だと知った時の動揺、ヂァン・リンの正体を知った時の慟哭を、深く感じた気がして、それがこれまで公演を重ねてきた役者が到達したものなのか私の見方が変わったのかは分からないが、よりジョーを身近に感じることができた気がする。

そして恥ずかしながら、これまで台本も読んでいたのに見落としていた台詞にリウ・リの「大学の同級生のワン・ポンフェイ」というものがあった。※3/14訂正 「大学の男子」でした。

戦車の中の兵士、ワン・ポンフェイはヂァン・リン、リウ・リの友人だった。

そうなると見方がまた変わってくる。

ヂァン・リンは、友人であるワン・ポンフェイが操縦する戦車の前に立っていた。兵士も立ちはだかる男が友人だと知っていた。

兵士の消息を知りたいと思っていたのか、もしくは、戦車男にしか頭にないジョーに、名もなきヒーローであるワン・ポンフェイの存在を知って欲しかったのか…。

そして千穐楽で初めて私は、リウ・リのお腹の中の赤ちゃんについて思いを馳せた。

本来ならあるはずだったその子の未来。男の子だったのか。女の子だったのか。

ヂァン・リンは、どんな気持ちで戦車の前に歩いて行ったのか。

死んでもいいと思っていたのか。何も考えられず、茫然自失だったのか。

そこに少しでも抗議の意思はあったのだろうか。

戦車男を、体制に立ち向かうヒーローにしたジョーとグァンシーを築いたのは、どういう意図があったのか。

ヂァン・リンは、「彼になりたかった」と言った。決してジョーの追い求めるヒロイズムを否定していたのではないと思う。

ジョーが見ていた戦車男に近づきたいと思っていたし、それがジョーと築いたグァンシーであり、スモッグの現状を訴える匿名記事であり、拡声器を使っての抗議の声だったのだと思う。

話は前後するが、ジョーと再会したテスは妊娠していた。当然ジョーの子供である(この事実が判明した時のジョーの表情も大千穐楽で進化していた!)

テスはきっとジョーとは復縁しない。だがお腹の子の父であるジョーの理想を追い求める情熱家な面を愛しているのだろうし、浅はかで軽薄な面はきっと反面教師にしつつ我が子を育てて行くのだろう。

ミルクで顔を濡らしたテスの表情は穏やかで、美しく、すでに母親のそれだった。

テスのお腹の中の子供は、男の子だろうか。女の子だろうか。

生まれてきた子供といつか対面した時、ジョーはどう感じるのだろうか。

「こんな世の中に生まれて可哀想に」と思うだろうか。

公演序盤には考えなかった、あのラストシーンのその後に思いを馳せた。写真には写っていない、あの買い物袋の中身を想像するように。

浅はかで、軽薄で、利己的で、全然電話を折り返さない彼だけど。

人間臭くて憎めないジョー。

恐らく、座長・田中圭さんの代表作の一つとなったであろう、舞台「チャイメリカ」を観劇できたことを幸運に思うし、そして映像化されて、より多くの年代、国籍の人に見られるようになって欲しい。

大千穐楽を終えて、カンパニーの皆さんは既に次のステップに進んでいる。

だけどまだもう少し、チャイメリカの世界に浸っていたい。






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