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怯えながら暮らす

嫌な世の中だ。
私は極度の心配性なので、あれもこれも何もかもが怖い。

母が使っている家電には、不用品買取業者、インターネット回線業者、屋根壁修理業者などなど、怪しい営業電話が入ってくる。
ナンバーディスプレイにして、迷惑電話とわかったものは即迷惑登録しているから、以前に比べてずいぶん減ったが、それでも途切れることはない。
いまどき、家電を必要としている世帯はどれぐらいあるのだろうか?

訪問営業も時々来る。
不用品買取、屋根の修理。
モニターで確認して、飛び込みの営業っぽかったら、玄関には出ないのが一番。
ヤマトや佐川、郵便局は見ればわかるし(そもそも配達予定がわかっている)、amazonは置き配だからピンポンも鳴らない。
予定していた配達以外でのピンポンは、まず応対する必要のない訪問だ。
売るつもりのなかったものを安価で持って行ったり、場合によっては室内を物色したり、必要のない修理を勝手にして高額請求してきたりと、あらゆる詐欺のケースを聞く。
怖い怖い。

電話もピンポンもいらない。
(だいたい私は聞き取れないのだ!)

ネットを開けば、「不審なメールにご注意ください」「偽サイトにご注意ください」に、誰が喜んでこれを見るの?というような不快な広告の数々。
ふつうにネットサーフィンしているだけで、嫌な気分、気持ち悪さが蓄積していく。

いったい何の修行だ?

迷惑電話が怖い。
迷惑訪問が怖い。
迷惑メールも虚偽サイトも怖い。
嫌なことだらけ。

だけど。

それをしている人たちは、最初からそうしようと思ってしているわけではないはずだ。少なくとも生まれてすぐ、オギャアと泣いたときには、誰でもこの未知の世界にドキドキして、わけもわからず泣いて、助けてくれ、教えてくれと純粋に訴えていたはずなのだ。

どこからどう、どんなふうに変わってしまうのか?
それは人それぞれだから、一概には言えないけれど、令和時代がこんなにも窮屈で悍ましくなっているのは、昭和、平成を経た大人たちが作ってきた社会の歪みのせいだと思う。
人が嫌がること、人を怖がらせることをしている人たちは、その歪みにはまってしまい、感覚が麻痺してしまっているのではないのだろうか。抜け出したくても、抜け出す道筋が見えなくなっているのではないか。
人並みの暮らしをしようと思ったら、誰かを貶めることでしか実現できない。そう思い込んでしまっている。追い詰められている。そんな生き方は長続きしないとわかっているはずなのに。

自分の不安を鎮めるために、いまこれを書いている。
自分の身は自分で守るしかない。
知らない番号の電話には出ない。
予定のない訪問には出ない。
趣味の悪い広告が出てくるサイト(ニュースや雑誌HPに多い)は見ない。
ネガティブぐるぐる思考は捨て、明るい方を見る。
楽しいことを考える。
運がいいと自分に言い聞かせる。
守られているから大丈夫と信じる。

当たり前に、慎ましく、ただ平凡に暮らしたいと思っているだけなのに、なんともガチガチな装備が必要な世の中になってしまった。
長く生きたいとは、正直思えないのだよ。
これ以上、社会が悪くなる前に消えたい。
その前に、後の世代のためにできることがないか、考えてみるつもりだけど。


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