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『モモ』が出てこない『暇と退屈の倫理学』

國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』を読んだ。


内容はタイトルの通りだが、狩猟と定住、消費社会、疎外論(ホッブズ、ルソー、マルクス)、ユキュスクルの環世界、ハイデガーなど幅広く論じられている。文体が柔らかく、とても読みやすい。本書の後半で國分は、ハイデガーの退屈論による退屈の分類を紹介しながら、それらを批判的に読み解いていく。

ハイデガーによる退屈の分類と國分の指摘

本書のメインとなるのが、ハイデガーの退屈論であり、そこを理解することが重要な部分となる。ハイデガーは退屈について、3つの形式に分類している。

・第一形式…駅で長いこと、来ない電車を待つ退屈。何かによって退屈させられること

物が言うことを聞いてくれない。そのために、私たちは〈空虚放置され〉、そこにぐずつく時間による〈引きとめ〉が発生する。

國分功一郎著『退屈と暇の倫理学』(新潮文庫、令和4年)、249-250頁

・第二形式…気晴らしのパーティーで感じる退屈。何かに際して退屈すること。第一形式では、気晴らしで地面に絵をかいたり、葉っぱの数を数えたりするが、第二形式では、パーティー自体が気晴らしという違いがある。

第一形式との違いは明らかだろう。第一形式の場合には、退屈させる対象が明確にあり、それに対する対抗措置として、主体が明確な暇つぶしを行う。第二形式の場合には、主体の置かれている状況、主体の際している状況そのものが暇つぶしである。暇つぶしとしての工夫に満ちたその状況のなかには、特定の退屈なものなどありはしない。

前掲書、259-260頁

・第三形式…「なんとなく退屈だ」

この退屈に対してはもはや気晴らしということがあり得ない。もはや気晴らしは無力である。第一形式では、退屈に対抗するという仕方で気晴らしが存在していた。第二形式では、退屈をなんとなく回避するという仕方で気晴らしが存在し、それが退屈と絡み合ってしまっていた。両者を比べると、第二形式では気晴らしが弱くなっているように思える。つまり、退屈が深さを増すにつれて、気晴らしは次第に力を失っていく。そしてこの第三形式においては、まったくの無力となる。

前掲書、273-274頁

ハイデガーによれば、この第三形式では最終的に自己と向き合わざるを得なくなる。そもそも自由であるが故に退屈するのだから、決断によって自由を発揮せよというのだ。いかにもハイデガーらしい考え方だ。

こうした考え方に國分は否定的だ。というのも、第一形式は仕事の奴隷、第三形式は決断の奴隷で、どちらも自己喪失がおきている。

第三形式と第一形式は最終的に区別できない。というか、これら二つはそれぞれ、一つの同じ運動の一部と捉えるべきだ。

前掲書、352頁

國分はハイデガーを批判的に読み解きながら論をまとめるが、詳しくは本書で確かめてもらいたい。

以下、これまでに得られた成果をまとめ直し、〈暇と退屈の倫理学〉が向かう二つの方向性を結論として提示する。ただし、それら二つの結論は、本書を通読するという過程を経てはじめて意味をもつ。

前掲書、393頁


『モモ』が取り上げられない不思議

ところで本書を読みながら生じた疑問は、國分はミヒャエル・エンデ『モモ』をどう捉えたのかというものだ。

確かに、児童文学がいきなり登場するのも唐突な気もする。一方で、時間との向き合い方といえば、『モモ』をスルーするわけにもいかないだろう。もはや取り上げるまでもないということなのだろうか。

『モモ』は時間泥棒である灰色の男と、モモが対峙する物語であり、いかに私たちの社会が時間の節約に追われているかを風刺する物語でもある。

モモの友だちである道路掃除夫ベッポは次のように語っている。

「とっても長いどうろをうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」

ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳『モモ』(岩波少年文庫、2005年)、52-53頁

ここでベッポが感じる焦りとは、ハイデガーのいう第一形式を生み出すものと同じだろう。仕事に追われるからこそ、時間を無駄にしている退屈に耐えられない。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」
「これがだいじなんだ。」

前掲書、53頁

「今」に集中することで、退屈から離れる。ベッポはそうすることで「たのしくなってくる」と話している。本人が「これがだいじなんだ」と言っているとおり、それを國分は〈動物化〉という言葉で表現しており、以下のようにも述べている。

 人は決断して奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け取れない。しかし、退屈を時折感じつつも、物を享受する生活のなかでは、そうしたものを受け取る余裕をもつ。
 これは次のことを意味する。楽しむことは思考することにつながるということである。なぜなら、楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれている。

國分、前掲書、406-407頁

しかし、そうした生き方を灰色の男たちは認めない。

「時間の倹約のしかたくらい、おわかりでしょうに! たとえばですよ、仕事をさっさとやって、よけいなことはすっかりやめちまうんですよ。(中略)とりわけ、歌だの本だの、ましていわゆる友だちづきあいだのに、貴重な時間をこんなにつかうのはいけませんね。ついでにおすすめしておきますが、店のなかに正確な大きい時計をかけるといいですよ。それで使用人の仕事ぶりをよく監督するんですな。」

ミヒャエル・エンデ、前掲書、98頁

モモを懐柔するために、説得に赴いた灰色の男は、モモが持っている人形に言及し、「消費」を煽る。

「こんどはほんもののミンクの毛皮のコート。これは絹のナイトガウン。これはテニスの服……(中略)。」
「これだけあれば、しばらくは遊べる、そうだろう? でも、二、三日するとまたたいくつしてしまいそうだね? そうなったら、またもっといろいろのものをつかって遊べばいいんだ。」

ミヒャエル・エンデ、前掲書、136頁

ここでは、そもそも暇や退屈との向き合い方を心得ているモモに対して、記号としての消費を煽る灰色の姿がよく描かれている。そして、興味深いことに、灰色の男たちはいつも葉巻を口にくわえており、それがないと自身が消滅してしまう。葉巻は、人々から奪った時間を彼らに供給する道具となっている。葉巻は時間を視覚化する道具でもある。ちなみに國分は、ハイデガーがパーティーでの気晴らしの際に葉巻を渡されたことを紹介して、それについても論じていた。

タバコを吸う人なら分かるだろうが、喫煙の煙は独特の時間を与えてくれるものである。そのゆったりとした形状の変化はとても美しく、喫煙者はしばしばそれにみとれる。その時、時間はゆっくりと流れている。忙しく働いていた人間が喫煙するとき、時間の早さは極端に変化する。

國分、前掲書、333-334頁


それでも『モモ』が取り上げられない理由

では、なぜここまで関連性が強い『モモ』が、『暇と退屈の倫理学』では論じられなかったのか。おそらくだが、『モモ』を読むことで私たちは、時間に追われない、本当の生き方をするべきだという結論を出してしまうのではないだろうか。そして、國分はそうした本来性をめぐる議論に警鐘をならしていた。

本来性への志向とは、もともとはこうであったのに、そこから疎外されているから、本来の姿に戻らねばならないという過去への回帰欲望のことである。本来的なものとは、もともとそうであった姿として想定されるもののことであり、したがって、本来性という概念は過去形のものでしかあり得ない。だから本来性にもとづいて疎外論を構築するとき、その議論は強力に保守的なものとなり、時に凶暴な、暴力的なものにすらなる。本来性にもとづいて構築された疎外論は、現在の姿を全面否定し、過去の姿へと帰還するよう強制することがあり得るからである。

國分、前掲書、225-226頁

だとしたら、國分はなぜ『モモ』を取り上げて、批判やその読み方に注意喚起をしなかったのだろうか。その答えは、『モモ』のあとがきにある。

「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話してもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」

ミヒャエル・エンデ、前掲書、398頁

ミヒャエル・エンデのこの予防線の張り方はとても示唆に富むものだし、安易に『モモ』を取り上げない國分も、さすがというべきか。一度、『モモ』に対する考えを聞いてみたいものだ。

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