見出し画像

【読書メモ】可愛い戦争から離脱します/整形アイドル轟ちゃん

「整形アイドル轟ちゃんです。お願いします」

愛らしく感じの良い挨拶が、初期から変わっていないところがとても好きだ。彼女がどんどん人気者になっていくのを、私は最初の頃から観ていた。

最近轟ちゃんが垢抜けてますます可愛く綺麗になったわけが、この本のタイトルを聞いてよく分かった。


あぁ、そうか、"可愛い戦争" から離脱したから、可愛くなったのか。


人と競うことなく、自分の中の"可愛い"を、ただお洋服やコスメを手に取るのと同じように楽しむ女性は魅力的だ。とても、魅力的だ。

2019/12/19(木)「可愛い戦争から離脱します」発売日♡とスケジュール帳に書き込んだ。そして当日、厳選したお気に入りしか残していない私の本棚に仲間入りした。



今から書くことは、もしかすると誤解を招くかもしれない、不快に思われるかもしれないと一瞬怖くなったけど、正直な内容に胸を打たれたから、私も包み隠さず正直に、この本を読んで感じたことを書くことにする。



◼︎「ブス」と言われたことはないのに

考えてみれば、私は人に「ブス」と言われたことはない。

容姿を理由にいじめられたことも、他の人が当たり前にやっているごく普通のことを容姿のせいで出来ないと感じたこともない。

それでも、彼女の放つ言葉ひとつひとつが、どれも胸に刺さり、涙なしでは読めなかった。どの章も他人事には思えなかった。

この気持ちは間違いなく "共感" だった。


なぜか?


"可愛い戦争" には世界中の人々が参戦している。

自分のことを、ちょっとくらい可愛いとか綺麗だとか自負している(勘違いも含めて)ような人間も、参戦すれば大半が、誰かに負けるからだ。誰かには勝っても、誰かには必ず負ける。

自分の価値基準でそう感じることもあるだろうし、明らかに他人からの評価に差がつくこともある。


そして戦いの中で"負け" を感じるとき、自分より"上"と感じる人しか視界に入らなくなる。

もしかすると自分も誰かにそんなふうに位置付けられていることがあったとしても、それには気づけない。気づいたところで、そこに価値を見出すことなど出来ない。「そんなレベルで勝ったところで」と、思ってしまう。例えば学校でダサいとバカにされた手編みのセーターを、近所のおばあちゃんが「めんこい」と褒めてくれたとて、心温まりはしてもそれが自信には繋がらないのと似ているかもしれない。

一般社会で生きている芸能人並みの美女か、勝戦しかしないと決めている逞しい女性以外は、ほぼ全員の女性が、自分より"可愛い""綺麗"な子との戦で傷付いている。

参戦すれば大半の女性が負ける、それが"可愛い戦争" なのだ。


◼︎あの子の幸運は、容姿によってもたらされたもの、という思い込み

私は人から、ブスやデブというようなことを言われたことはない。それでもいつの間にか、勝手にたくさんのコンプレックスを抱えていた。中学生の頃は、思春期特有のぽっちゃりした体型や、ニキビの出来やすい肌が大嫌いだったし、人が自分より幸せそうに見えるとき、「あの子みたいに可愛く生まれていればな」と迷いなくその幸運が容姿によってもたらされたものであると思い込んでいた。


◼︎他者評価に傷付きまくった20代

私が容姿を理由に、他人の態度や言葉で傷付くという経験を繰り返すようになったのは、高校を卒業してからだ。水商売と芸能活動をはじめたことで、容姿で人からジャッジされる機会がうんと増え、他人から人と比べられて評価を下され、厳しい現実を突きつけられるようになった。


一生懸命お客様の話を聞き、ちょっと場がシラケたら自虐ネタでも何でも言って話を盛り上げる私の横で、見た目がいい女の子は愛らしく微笑むだけで指名を勝ち取っていた。冷めた視線を送られ、「うちはモデルの卵とか、一般職の子でも同等レベルの容姿の子しか雇ってないんですよ」と、君はそのレベルに達してないと暗に言われ、合否の連絡をもらう前に落ちたと分かった面接も何度も経験した。

明るくハキハキ自己アピールをする私の後で、ニコリともせず小声でありきたりな挨拶をしただけの美女が、私が落とされたオーディションに受かっていた。


私の20代は、そんな経験の連続だった。



あの子に対する態度と私に対する態度が、あからさまに違う。私、何も悪いことしてないのに。何なら私のほうが愛想も良く気遣いだってしてるのに。愛想笑いもせず不機嫌そうにしている可愛いあの子の束の間の微笑みを勝ち取るために、男たちは一生懸命になる。そんな彼女や彼等の分までせっせとドリンクを注文してしまう自分が惨めで情けなくて、帰ってから泣いたことは一度や二度ではない。


◼︎私は"いい人"でいるから好かれる、"愛想"だけが唯一の武器という呪縛

「キツそう」

「ワガママそう」

この2つは悪口のようにも聞こえるけれど、美女に対して使う場合、ほとんどが褒め言葉だ。例えば「悪い男」的な感じでね。

「いい男」とは、「いい人」のことではなく「悪い男」のことであるケースが多いように、女も、キツそうとかワガママそうというイメージは、恋愛においてはポジティブな要素になることが多い。でもそれは、美人に限った話だ。

私は、自分は「いい人」「いい子」でいなければ人から好かれないとずっと思ってきた。明るく愛想良く振る舞うから、人と上手くやっていけるんだと。

愛想というものを自分からとったら、人と円滑にコミュニケーションをとる自信が私にはまるでない。

私がしたら暗いと思われるような態度を、綺麗なあの子がしたらクールと言われるのはなぜ?

あとちょっと鼻が高かったら、あと数センチ人中が短かったら、あと少しひざ下が長かったら、肌が荒れにくかったら……私はもしかすると、笑顔を見せずに人と話すことが出来たかもしれない、とずっと思ってきた。

別に笑うことが苦痛なわけではないけれど、本当は真顔でいたいときまで笑ってしまう自分のことは、大嫌いだった。



ここまで書いていて気づいた。

それでも、笑わない自由はあるじゃない?って。

笑いたくなければ笑わなければいい。

テンションの低いときに、無理して明るく振る舞わなければいい。

それでも、綺麗なあの子に、可愛い彼女に負けないために、私が知らず知らずのうちに培ったものが、私を助けてくれているのも事実だ。


◼︎私を追い込んだのは、他人ではなく誇大的な理想の自分像


 植え付けたのは周りでも、「自分の中に生まれた劣等感」を解消する鍵は自分の中にしかなかった。〜P102より引用〜
 育てまくった劣等感は、もはやその根源である周囲の声とは断絶されていた。〜P102より引用〜
 価値を決めるのは、賞賛や悪口ではなく 圧倒的な自己満足〜P103より引用〜


正にその通りだ。

気づいていたけれど覚悟しきれなかった問題だった。


恋愛マガジンをご覧くださった方ならご存知だと思うけど、私は彼にとても愛を注いでもらっている。彼は毎日のように私を褒めてくれる。人様にはとてもじゃないけど聞かせられないほど贅沢な褒め言葉を贈られて、私は日々を過ごしているし、そんな彼の存在は大きな支えだ。


それでも、夜の世界や芸能の世界でついた傷が癒えることはなかった。


考えてみればもう3〜4年私は、誰にも貶されるこのとのない生活を送っている。


それどころか、彼氏とか、祖母とか、母の職場の人たちとか、そんな小さな世界でだけど「歩志華ちゃんは綺麗だから」と褒めてもらって暮らしているのだ。


それでも、一度植え付けられた(いや、植え付けた)ドス黒い感情が、消えることはなかった。


私を本当に深く傷付けてきたのは、他人との比較や他者評価ではなく、誇大的な理想の自分像と現実の自分との差だからだ。


頭の中の私は、もっと綺麗で可愛いのに……。鏡に映るこのさほど綺麗でも可愛くもない女の人は誰だろう。おかしい。私の人生、こんなはずじゃなかった。


そして時折、"空想上の私"のような完璧な姿をした女性に出会い、打ちのめされた。ほら、実在するんじゃない。おとぎ話の中だけの人じゃないんじゃん。それなのに、どうして私の顔は、脚は、描いた通りではないんだろう……。


この厚かまし過ぎる苦しみから救い出してあげらるのは、私しかいない。

この世にたったひとり、私しか、いないのだ。


◼︎"世界的トップモデル" キャメロン・ラッセルが語る「遺伝子の宝くじ」論

この本を迷わず手に取った人には、ぜひこちらの動画も観てみてほしい。

世界的トップモデルとして通用する整った目鼻立ちとスラッと伸びた美脚、くびれたウエストは、「遺伝子の宝くじに当たっただけ」だと、それ以上でもそれ以下でもないのだと、当選者が断言しているのだ。



番組内で彼女は、自分を含め世界で活躍するモデルたちのことをこのように言っている。

「彼女たちはおそらく世界で一番身体的不安を抱えています」と。


たしかにそうだろう、と思った。


常に世界中の人々から隅々を凝視され、どんなに寝不足でもストレスフルでも、皆んなの憧れに値する容姿を保ち続けないければならないのだから。


"可愛い戦争" の頂点にいるはずの彼女たちが、実は一番、この争いに苦しめられているのかもしれない。


◼︎母のようになりたい

私の母は、私や父がテレビや雑誌の中の美女を褒めるたびに、「でもちょっと顎出てるやん」などと、粗を指摘する。


その反面、ブスキャラとして活躍されている女芸人の方々を見て「こういうキャラやしブスに見えるかもしれんけど、よく見たら綺麗な顔立ちしてはるよ。隣に座ってるアイドルより、この人のほうがお母さん好みやわ」と言う。


そう言われてよく見てみると、母の意見は的を射ている。


ちょっとくらい顔の配置が整っていようが、なんとなく可愛い雰囲気で有利な席をキープしていようが、人間は人間。その差なんて知れている、というのが、私の母の感覚だ。


自分の親ながら、そういうところをとても尊敬している。


◼︎整形について

今回読んでいて、整形をズルいとか、努力してないとか言う人がそんなにも多いことに驚いた。


努力してないって? 

轟ちゃんをはじめ、整形を取り上げているインフルエンサーの方々の発信をちゃんと見た上でそんなこと本気で思ってるのだろうか。不思議でならない。



決して安くないお金を貯め、痛みやダウンタイムの腫れに耐えることは、メイクの研究より努力を要さないのだろうか?


そんなことないはずだ。


私は、今よりもっと整形が認知されて、エステやメイクのように、綺麗になるための方法の1つとして誰もが捉えるような時代が来ることを望んでいる。


だってそのほうがフェアだから。


「生まれ持った素材だけで勝負しなさい」と言うのなら、「容姿で人を判断したら罰金」みたいな制度も作るべきだ。

持って生まれた顔がちょっと違う、その微々たる差で扱われ方に雲泥の差が出る世の中なのに、後から容姿を変えたらズルいだなんて、そんなのアンフェアすぎる。


「リスクも伴うから気安くやらないほうがいい」という意見はよく理解出来るが、「整形はズル」という意見には、私は全く賛同出来ない。

そんなこと言うなら、生まれつき可愛く生まれた人はもっとズルくない(その人たちを責めたいわけじゃないよ)?


どうにも出来ない不公平を、自分の力で埋めることは悪いことでもズルイことでもない。


こんなこと書きながらも、カスタムしたいところはあるくせに整形に踏み切れないでいるちっぽけな私が、躊躇いなく医療の技術で満足いく顔を手に入れられる時代が来ることを、私は心待ちにしている。

そしてそれはもうすぐだろうと、期待している。他力本願で、ごめんね。


◼︎轟ちゃんの好きなところ

彼女の滲み出る知的さ、思慮深さ、感受性の豊かさが好きだ。

と同時にそれらは、劣等感を強めやすい要素でもあると思う。

マイナス思考や自己嫌悪は、単純明快な人にはもたらされることのない試練。動物的ではなくより人間的な人にのみ与えられるハードルなのだ。


もし轟ちゃんが世界的トップモデルとして生まれていたら、おそらくキャメロン・ラッセルさんのような意見を述べられただろうと私は思う。


もし容姿を理由にいじめになど遭わず、容姿を武器に活躍するような人生を送られていたとしても、結局最終的には、"容姿だけに捉われることの愚かさ" に気づかれる人だと。


これは私の勝手な想像ではあるけど、そう感じさせる、人間味がちゃんとあるのにフェアなところが、彼女の好きなところだ。


◼︎可愛い戦争から離脱します

これからも私は、自分の美意識を追求していく。

だって、綺麗になることが好きだから。

手に取るだけで心が躍るようなお洋服を、「似合う」と感じて着たいから。


だけどこれからは、自分と人を比べて、自分や人を貶めることはしない。誰かを蔑むことも崇めることもしない。

そんな出来た人間じゃないから、こう誓ってもまた、嫌な自分が顔を出すことも度々あると思う。その度に「そっちじゃないでしょ。そっち側に行っても私が求めてる幸せはないよ」と自分を引き戻してあげようと思う。


私の中の"綺麗" "可愛い"を、ただただ、好きなお洋服やコスメを手に取るように楽しみたいから。


本日をもって、私、とわ歩志華も、"可愛い戦争" から離脱します




関連記事:【小説メモ】モンスター/百田尚樹 https://note.com/towa_hoshika/n/n23175a6072af






幸せな時間で人生を埋め尽くしたい私にとって書くことは、不幸を無駄にしない手段の1つ。サポートしていただいたお金は、人に聞かせるほどでもない平凡で幸せなひと時を色付けするために使わせていただきます。そしてあなたのそんなひと時の一部に私の文章を使ってもらえたら、とっても嬉しいです。