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「夫の死」という共通項だけでは何も分かり合えない

夫が亡くなったとインスタで報告した時、たくさんのDMをもらった。

当時はインスタでビジネスを頑張っていた時だったので、それを中止するために夫の死も報告したのだった。

DMの中には「わたしも夫を亡くしました」というものが多くて、でもそれはわたしの心をまったく温めないものだった。

なぜならその人たちとわたしの状況は全然違ったから。

最愛の夫を亡くして悲しみに暮れる人と、離婚したくてしたくてたまらなかった夫を亡くしたわたしが分かり合えるはずもない。

しかしそんなことを言えるはずもなく、まるで最愛の夫を亡くしたかのように映る自分と、夫の自分勝手な死に対する憎しみと怒りで腑が煮えたぎっている自分とのギャップが苦しかった。

もう男性として愛していなかったとしても、離婚したかったとしても、それでも一緒に生活していた家族が突然死ぬというのは想像を絶する衝撃なのだ。紛れもない暴力なのだ。別れたかったからといって喜べるはずもない。そこには苦しみしかなかった。

その時わたしが学んだのは「夫を亡くした」という共通項だけでは何も分かり合えないということ。それだけで「わたしたち仲間だよね!」とはなれない。むしろ更なる地獄に引き摺り込まれる感覚が恐ろしかった。

2年経って怒りや憎しみも燃え尽きて、今はただ静かな感情があるだけ。夫のことを思い出すこともほとんどなくなった。それだけ癒しが進んできたということだろう。当時は書けなかったけど今だから書けることをこれから少しずつ書いていこうと思う。

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