見出し画像

2018年度版「絶対なるもの」って何だろう①

( 言ってみたい事の要約:現代社会においても、納得感をもちうる「絶対的な何か」を定義する事が出来れば、それを用いて相対的な比較から距離を置くことによって、もう少し楽に生きられるのかなあ?でもそんなのあるのかなあ?)

以下、本文。

https://twitter.com/tsu_feet/status/1020118580581490688
上記ツイートを見て、思ったことを書きます。
※ 僻みとか攻撃とかの意図は、全くありませんからね!!

上記ツイートですが、イベントで「イケメン(と推測される)」「年下」「可愛い女の子」に声をかけられて、結婚したという素敵なお話です。(皮肉じゃないよ!本当にそう思ったよ!)

みんなこんな感じで幸せになれたらいいのにな、ってマジで本心から思うんだけど、うーむ実際には中々難しいなぁって、ちょっと寂しい気持ちになったのだ。

何故かというと、「年下(若いという事」「イケメン・可愛い」ということは、相対的 (他人との比較) に決定される事だからです。
「若くて魅力的な女性と結婚できる事」は、この社会において間違いなく幸福とされる事の一つなんだけども、「若くて魅力的な女性」の数は社会に限られているから、その幸福は椅子取りゲームとなり、そこには必ず「勝ち取るもの(幸せになる人)と、「敗れ去るもの (不幸な人)」が生じてしまう。

いやいや、可愛い女の子と結婚する事だけが幸せではない、それ以外にもいろいろな種類の幸せがあるから、恋愛に関して恵まれないのであれば、それ以外の箇所で自分なりの幸せを見つければよいのでは?っていう意見もあって、確かにその考えは僕は好きだけども、それだと話が終わってしまうからもう少し書いてみたい。
書いてみたいのは「全員が勝ちうる椅子取りゲーム」みたいなものは定義できるのか?って事。うむ。知恵熱が出そうである。

------------------------------------------------------------------
「若くて魅力的な女性」という属性が社会上価値を持ちうるのは「需要がある」からかな。なぜ需要があるかというと

1.男の本能的にそういう仕組になっている
       → 自分のタイプの異性は、思考のプロセス等を介さずにほぼ自動判定的に「いいなぁ♥」って思っちゃうよね。        
  
2.若くて魅力的な女性は社会に一定数しかいないから
        → 勝利者のトロフィーみたいなもんだね。だってさ、自分が他者より優越しているって感じられるのは、それが自分の存在価値みたいに思えて安心できるじゃないか。

「本能」「勝ち負け(自己存在価値)」かあ。これはめちゃくちゃ手強いぞ。確かにこれを克服できたら、人生は楽しく生きられそうだな。

抑制的なトレーニングを積むことで、こういった感じ方は克服できるかも知れない。だけどそのトレーニングを積むにしても、モチベーションとか仲間とかが欲しいよね。そしてそれが、昔でいうところの宗教だったのかも。(ストイックに生きることに道を見出すっていうのは、まさに何か宗教っぽい。)

昔は「絶対的な何か」として、宗教的な神様、あるいはアニミズム的な存在、あるいはお天道様、等を基準として置くことができた。(今もそうだけど。)

あるいは「社会常識」的なものも、自分が過度に欲望の虜にならないようなブレーキになっていたのかも知れない。(みんなが横並びで、学校をきちんと出て、会社に就職して結婚して、子供を作るのがよしとされる世の中など)

ところが高度に情報化された社会では、いろいろなものが見えすぎてしまうから、前述のものは、強い力を発揮できない場合が出てきた。中々難しい。

そして結局人生の成功っていうのは、「自分の人生という箱に、どれだけ目一杯、自分にとって気持ちよい事を詰め込めるか?」になってしまっている感がある。消費至上主義、快楽至上主義がまかり通っているように感じる。

どうしたらよいものだろうか。ダラダラ書いていたら長くなってきたので、分割しようと思います。

もし読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました!!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?