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"気づいたこと"に気づいたこと

まずは、これを読んでいただきたい。

私は将来、他人から必要とされる人間になりたいです。ある本の主人公は、「物」が消えたら誰かが困るのかもしれないけれど、「自分」が消えても誰も困らないという考えをもちました。その考えがあまりにも孤独すぎて、私は不安になりました。
今の私のように、何となく生きていては、とうてい夢は叶わないと気づいたからです。どうすれば夢がかなうか、私は今から努力することが大切だと思います。

小学校の卒業文集。それは不完全で、未熟な文の延々なる羅列。親の目線から見れば、可愛いものなのかもしれないが、書いた当の本人からすれば後々には黒歴史地味たものでしかなくなるのであろう。この卒業文集もその例に漏れない。ほとんどのページに渡って書かれているものは、修学旅行にて「〜に行った、たのしかった。」とか学芸会で「〜の役をやった、団結が強まった。」、あるいは将来「〜になりたい、中学ではこんなことを頑張る」というような紋切り型がつらつらと続く。読んでいて楽しいものではない。これを読まされて添削までする小学校の教諭というものは本当に根性のいる仕事だなとささやかにも感心したまでだ。

それでも、取るに足らぬ石の中にも宝石は眠っている、とはかく言うように、くだらない文章たちが続く中にふと目を留まらせるものもある。それが先ほどの文章、「気づいたこと」である。

「気づいたこと」も結局は小学校文集の類型のうちの「〜になりたい、だから中学校では〜するように頑張る。」タイプにばっちりと当てはまるのだが、この文章が他と違うのは"〜"部分の抽象性の高さ、つまりは「なにになりたい?」と聞かれて「人に必要とされる人になりたい。」と答える小学生とは思えない度胸と哲学性の高いことにある。

とはいえ、この文章はやはり小学生の文。どこか論理的に破綻しているような面もある。もちろん表現力の問題だろう。これを書いた立派な一人の"筆者"がなにを考えていたのか、そして我々はそこからなにを学べるのか、そんなことを少し考えてみよう。



私は将来、他人から必要とされる人間になりたいです。

「気づいたこと」はこの一文で始まる。ぐっと引き寄せられる不思議な魅力を放つ一文だ。警察官でも、消防士でも、サッカー選手でも、ケーキ屋さんでもない。"筆者"がなりたいものは"他人から必要とされる人間"なのである。端的に言えば、自己承認欲求ということだろうか。果たしてその一言で済ませていいのだろうか。

ある意味で、ものすごくヒューマニズム的な考え方だと思うのだ。単なる自己承認欲求とは到底思い難い。他者から認められることが必ずしも必要とされることではないだろう。それは「必要のかりそめ」である。

醜い顔なのに、あたかも美女美男のような加工をしてネット上に写真を堂々とさらす行為を見ているとこれを痛感する。もちろん、顔を繕ってあるから"いいね"を幾らばかりかもらうことはできるものの、果たして"いいね"を押している人の人生に必要なのかどうかはわからない。それでも、本人としては必要とされているかのような勘違いをしてしまう。

"筆者"はそのような状況ではなくて、真に必要とされたいのではないかと思う。次の文章がそれをよく示している。

ある本の主人公は、「物」が消えたら誰かが困るのかもしれないけれど、「自分」が消えても誰も困らないという考えをもちました。

「ある本」がどの本なのかはわからない。"筆者"は明示せずにある本で済ませている。評論作家であれば、高明な哲学者ーここで言えば、例えばサルトルとかあたりーの名前を出して、権威と論理的な奥ゆかさを演出しようとするものだが、小学生はそんなことを思わない。"筆者"に必要なのは純粋に、その本の考えである。だから「ある本」なのだ。それもまた良い。

しかし、この本の主人公はひどくニヒルである。詳しくこの主人公の状況は知り得ないが、相当に荒廃したものなのだろう。ものすごくプラグマティックな思想である。存在というものがその効用によって浮かび上がるように言いつつも、そのような存在に「私」は含まれないのだ。需要や利用価値のない存在は存在し得ない。だから、無くたってこの世には必要ない。これは小学生には相当な衝撃だろう。やはり、続く文にはまさしくそのような衝撃が言葉として描かれる。

その考えがあまりにも孤独すぎて、私は不安になりました。

自分が誰からも必要とされていない、という悟りは孤独だ。孤独すぎる。小学生なんて、朝起きて、学校で騒いで家に帰って夕飯を食べたら次の日、というような思考や哲学の介在しない生活を送っている。友達との関係に思い悩ませられることはあろうが、その関係そのものを考察することはない。ようは「クラスみんな友達!」みたいな軽薄な観念が小学生にはどこかある。それなのに、あの主人公は「必要とされていない自分は消えたっていいんだ。」と言う。

「あれ、もしかして私も必要とされていないかもしれない?」

小学6年生が哲学に目覚める瞬間が垣間見える。答えのない問いかもしれない。不安が襲いかかる。どこかで答えを見つけなければいけない。

今の私のように、何となく生きていては、とうてい夢は叶わないと気づいたからです。

なんとなく生きていては、なにも気づけない。人に必要とされるにはどうしたらいいかもわかるはずがない。そのままでは、誰からも必要とされない孤独な人生が待っている。なんと恐ろしいことだろう。

多くの人がこの恐ろしさに気づけていないのではないか。小学生に敗北しているのではないか。SNSに醜い顔をあげる人々しかり、自分が必要とされる状況を作り出そうという努力は大変結構なものである。しかし、そんなことをしたところで、本当の「必要」にはありつけない。「君は結局、誰からも必要とされていないじゃないか」と言われても仕方がない。

「存在を転回せよ。」と私は言いたい。必要とされる状況を作ることじゃない。今、自分がある立場が必要とされていることを自覚するべきだ。

スーパーのレジ打ちは誰にでもできる仕事だ。これは紛れもない事実。しかし、君のそのやり方、シフト、掛け持ち、職場の関係性でできる人が他にいるだろうか。役職の代行が可能かではなくて、君が今いる状況そのものが他人に取って代わることができるだろうか、ということを考えるべきだ。無能であっても無能をそっくりそのまま代行することは難しい。人間の存在価値はその完全代行が不可能な部分に見出せる。

立場から存在へ。これが私の訴える「存在のコペルニクス的転回」だ。そうすることでほとんどの場合、人間をそっくりそのまま代行することは不可能だと気づく。人から必要とされていることに気づけるだろう。「人から必要とされていない人なんていないじゃない。」そこまでの悟りが必要なのだ。

これは自己をしっかり自覚しなければ到達できないだろう。だからこそ、「なんとなく生きていては」ダメなのである。

どうすれば夢がかなうか、私は今から努力することが大切だと思います。

小学生の結論は短絡的である。結局、努力をするのが大切という結論に終止した。私はとても勿体ないと思う。結局これでは"筆者"がどのように自分の不動性、不交換性を自覚していくかがわからないままなのだ。本文の続きには、その努力の最たる例として勉強することが掲げられ、「中学校に入学したら勉強を頑張る」という月並みなことが、ここまでの壮大な哲学に無理矢理に接続され書かれている。いや、書かされている。周りの友達の書いている内容を読んで、恥ずかしくなって軌道修正でもしたのだろうか。

しかし、"筆者"は大半の大人よりも随分人間らしい。自分が必要とされることがいかに大切かを自覚し、そのためにはなにをすればいいかを哲学している。こんな小学生が増えればいいと思う。

小学生が感じた、自己の存在そのものへの恐怖はなによりにも変え難い価値がある。小学生の純粋な疑問にこそ哲学が詰まっているのかもしれない。確実な問いを立て、哲学ができる人間は強い。きっとこの小学生はどこまでも強くあり続けるだろう。

今、この"筆者"は高校生である。もうほとんど大人になった"筆者"はなにを思い、考えているのか。高校生になった"筆者"は果たして誰かに必要とされているのだろうか。18歳の「気づいたこと」が是非とも読みたいものである。

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