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花火〜叫び嘆き感ず内気な日本人〜

煌々と光る白熱灯に群がる蛾のようだな。
ー 一目して思ったのはそれであった ー


七月も下旬になり、夏の終わりがこちらに手招きし始めたような、けれどもその手招きさえも暑さにかき消されてしまっているような、そんな一日。久しく、"夏祭り"というものには行っていなかったのだが、ひょんなことから隣町の港まつりに出向くことになった。

というのもそれはとにもかくにも花火であった。行くという日、その日に花火が打ち上げられる。そのことひとつをもってして私は、そうひょいひょいと行く気もなかった夏祭りに引き寄せられた。

花火というものには人を惹きつけるなにか、得体の知れないものがある。それは、決してわかりやすいものではない。夏、それを渇望しても人は秋冬春とそれを無かったことのように忘れている。ある種の時限的な魅力かもしれない。夏になれば、誰かが必ず言い出す、「花火の季節だね、花火したいね、見たいね、」というセリフ。大抵の人は、たとえ全く無関心だったとしても、多少の興味をそそられる。そしてまた、他人に「花火したいね」と話してみる。こうしているうちに流行病のような速さで"花火への渇望"は日本人コミュニティを駆け抜ける。

私もそれに飲み込まれてしまったということだろうか。なんたる不覚。私には日頃、大衆の熱狂みたいな、そういう短絡的で一見非論理的な衝動を避けている節がある。世の中の空きテナントがことごとくタピオカ屋で埋め尽くされても、一滴たりともあの黒い粒と紅茶の組み合わせを口に入れなかったし、バーガーショップで新しいシェイクが出たとしてもいつもと変わらぬチョイスを守り抜こうとする。そんな私だから、花火に行くということはある意味で屈辱的なことなのかもしれないのだった。

それでもなお、私を駆り立てる花火。なんなのだろう、この魅力は。まだし夜空一面に華々しく輝く花火を見ていないにもかかわらず、足は祭に向かうのである。悔しかった。花火への敗北である。

祭に訪れてみると、蟻の巣に煙を燻らせたような人のごった返しようであった。浴衣姿のカップル、制服の学生、いかにもなデカダンス、あるいはいかにも今を生きてそうな金髪らがこの六割を占める。蟻にも色々、人にも色々である。私はこんなやつらと同じ類に属さなければならないのかと、ある種の軽蔑を覚えたわけだが、友達に手を引かれてそのごった返しの中に身を投じた。

ここまで、私の中では花火というものそのものに対して惹かれていた。周縁、あるいは他者というものは審美の邪魔でしかないという感覚があったのだ。しかし、それは否定されることとなる。

19:30ごろだったか、右耳にズシンと轟音が響き渡った。一発目の花火が、号砲のように鳴り響いた。わっと湧き上がる会場。私の一行はちょうど露店に向かう長い列の中だったから我々の真正面堂々と花火が始まったわけではなかった。横耳に入るあの轟音に振り向いた。

周りも友も、第一声は「おぉー」、私も釣られて「おぉー」。ここに意志は介在しなかった。花開いた光は、無意識的な感性を表象化した。そうして第二に「綺麗だねぇー」と言ってみる。ここにもきっと無意識が働いているのだろう。

次々と夏の滲み群青の夜空で花火は華々しく散っていく。その度ごと観衆は声を上げた。かく言う私もその一人であったことには違いない。

そうして、ボソッと友達に一言言ったのだ。

ー花火というのは、普段内気な日本人の叫びを代弁するものなのかもしれないねー

「また、そういうこと言う…」と友達にはすっかり呆れられたわけだが、考える葦はどこでも考える葦なのだ、致し方あるまい。

花火がなぜ、私あるいは皆を惹きつけるのか。

その答えはあの熱狂にあるのだろう。

私は、別に花火が特段綺麗だとは思わない。むしろ下品で趣味の悪い派手派手しさを持った悪趣味の塊だとさえも思うのだ。でも、私は花火が綺麗だという。"綺麗"という言葉に花火が分節されてしまった以上、それは"綺麗"なのであってそれ以外の何物でもあるまい。意志の介在しない感動、これが自ずと口に出る。

大衆の中のあの異様な熱狂と、空間を切り裂くような爆発音は、感動を呼び起こす。そして、ーここが普通の感動と違うのだがーそれは声に出る、条件を必要とせずに。

私たちは普段日常を美しさに溺れながら生きている。しかし、その全てに気づくことはできないし、潜在的な感動は必ずしも言葉にならない。いや、言葉にすることができないことさえある。我々は諸人間関係において感動の発生を妨げられている。というのは、例えば人妻に感嘆してはいけないことはモラルであるが、このモラルは唯美主義に反する。あの人妻が美しいと思っても私たちは口に出せない。これは私たちに知らず知らずのうちに大きなストレスを生む。

このストレスを解消するものこそ、"花火"ではないのか。

花火が無条件に、私たちの感動を言葉にさせる。普段私たちが憚られている思いというものを代弁させてくれている花火。あの頭の悪そうな歓声には大いなる意味があるのかもしれない。一年に一度、どうしても見たくなるあの花火には、内気な日本人にとって欠かせない儀式としての役割が見出せる。

煌々と夜空に花開く夏花は、無限の思いを背負って散っていくのである。

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