「オウム真理教事件」は、まだ終わっていない

死刑執行をもって、事実上の終止符が打たれたオウム真理教事件。以下の記事では、三人の識者が持論を展開しています。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32773300Z00C18A7CR8000/

作家・佐藤優氏は、「オウム真理教の標的は経済のグローバル化やバブル崩壊に伴うエリート層の若者の孤独感や将来不安」「人々の心の弱さや空白こそが現代社会の最大のリスク」と述べています。「教団X」の著者である小林氏は、「社会で受け入れられていないと感じた人たちが、社会の常識とは異なるルールで支配される教団の中で居場所を見つけた」と述べています。日本文学研究者のロバート・キャンベル氏は「高学歴の若者たちはなぜカルト教団に入信したのか。バブルで加速した消費社会の中、専門知識はあるが教養を欠いた若者たちが周囲に共感できる人を見いだせず、孤独を募らせていたことが背景にあったのだろう」と述べています。

孤独、居場所という言葉に見られるように、三氏の見解は、社会背景に関する多少の差異はあるものの、ほぼ共通しています。

居場所を探していたことは、間違いありません。ですが、はたして、孤独であったのか。

孤独という言葉から、私は「自己を確立した個が、その個を周囲に受け入れてもらえない状態」を想起します。

確かに、そういう若者もいたでしょう。しかし、おそらくはそうではない若者の方が多かったのではないか。「自己が未だ確立していない」若者が大半だったのではないか。別の言い方をすると、「自分の人生を生きているという実感や手応えがない」若者が大半だったのではないか。そうです、社会や親が敷いたレールに乗って、みんなと同じ方向を向いて、流れに身を任せて、その中でも期待される結果を出してきた若者です。しかし、その期待された成果の先には、何も展望が見えなかった。自分が社会とつながっている感覚が得られなかった。そんな時に、たまたまとある教団と出会った。その教団は、他に類を見ない邪悪な思想を秘めた教団だった。

こうした心性を抱えた若者は、現代にもたくさんいます。現代は、オウム事件が起きた1990年代にも増して変化の激しく先の読めない混迷した状況です。いじめ問題に代表されるような同調圧力の強さは、当時よりも明らかに増しています。

「自分の人生を生きている実感がない」という若者は、いま、どこにいるのでしょうか?  ネット空間でしょうか? マンガ喫茶でしょうか? もちろんそこにもいるでしょう。ですが、彼ら彼女らは、普通の場所に、普通にいるのです。

大学生に講義をし、レポートを提出させると、体感値としては50人に1人の割合で、自身の心の闇を吐露する学生が現れます。そのような自己開示をしない人の方が間違いなく多いことをかんがえれば、その数は相当数にのぼるのではないかと思います。

すぐそばにいるかもしれないそんな若者を、私たちは、見殺しにしているのかもしれません。若者が抱いている疎外感、居場所のなさ感は、私たち一人一人の意識と行動によって生まれていることを、改めて見つめ直したいと想いを新たにします。

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