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『ニュータイプの時代』

著者の山口周 氏について、耳にする機会が増えたので読んでみた。

『ニュータイプの時代』
山口周 著

著者の主張「問題の数に対して解決策が過剰になってきているので、問題発見できる人に価値が出る」という視点は面白いと思った。

問題数と解決策も需要と供給の関係にあり、解決策が過剰になってくると「~できる」「~の能力がある」ということに価値が薄くなってくる。なので、「これからどのようにしていくべきか」「何をやりたいか」を提言できる人に価値がでる、らしい。理屈としてはわかりやすい。

そして、著者は従来型(?)の正解や解決策を探すタイプの人間を「オールドタイプ」と称し、問題を探したり未来を構想できるタイプの人間を「ニュータイプ」と称している。もちろん、今後必要とされるのは「ニュータイプ」の方である。とのこと。

この考え方が巷で評判が良いらしいのだけど、少し違和感を感じたのでまとめておきたい。

「オールドタイプ」「ニュータイプ」は二項対立なのか?

著者曰く「オールドタイプ」は与えられた正解に対して「How」を突き詰めていくのに対して、「ニュータイプ」は「Why」「What」を追求するとのこと。

これを聞いたときに考えたのは、これらはどちらかしか追求できないことなのだろうか。どちらも同じくらい大切で、どちらも同じくらい追求しなくてはいけないのではないか、ということ。

本当に優れた人はWhy→What→How をすべて一貫して事業設計できる人だと僕は思っているし、それをわざわざ「オールドタイプ」「ニュータイプ」といって分ける必要もないと思う。


確かに、「Why」や「What」から考えて、今後あるべき姿(To-Be)を構想することが重要なのは理解できる。しかし、それは構想実現のための手段を考えなくてもよいことにはならない。

何より、「Why」「What」だけ定義して「How」を一切考えなければそれはある意味"我儘"っぽくなってしまうのではないだろうか...

理想を提案することだけなら決して難しくない。しかし、それではただの「絵にかいた餅」であり、他人を動かすことは難しい。具体的な手法・実現の方法に欠けるからだ。

今後あるべき姿(To-Be)と現状j(As-Is)の分析、両者のギャップ理解、そしてギャップを埋めるための具体的な手法。これらはすべてセットで提案されることが望ましく、切り離して考えられるものではない。


「オールドタイプ」は本当にオールドなのか?

高度経済時代などと比べると「問題の数に対して解決策が過剰になってきている」のかもしれないけれど、一方で問題に対して解決策が未熟な分野もたくさんある。

取り組まなければいけない理由(Why)も、取り組むべきこと(What)も明確で、解決方法(How)に集中する必要があるという分野に対しては「オールドタイプ」的な能力も重要だと思う。

「オールドタイプ」は綿密に計画・実行し、予測し、ルールに従って正解を探す。その能力は時と場合によっては重要だし、決して「オールド」にはならないと僕は考える。

同様に、これまでの時代でも常に次の時代を構想する「ニュータイプ」はいたはずで、過去の未来構想の上に現代は成り立っている。「ニュータイプ」「オールドタイプ」は時代背景からウケが良い悪いは有ったにせよ、どちらも普遍の重要な能力の一つにすぎないのではないだろうか。

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