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矛盾のなかに旨味が宿る〜蜜蜂と遠雷〜

春先から採用の仕事をしているのだけど、人をジャッジしてバッサバサ斬っていく要素に、摩耗する感覚が続いている。
おそらく人の可能性をいっときの判断で断ち切ることにストレスを感じているのだと思う。

そんなわけでなにかを埋めるように、この2か月間意識的に小説に手を伸ばすようになった。
奇しくも、立て続けに読んだ小説が生きづらさや痛みを扱った内容ばかりだった。「枠から外れる」生きづらさや痛みという共通点。もしかすると、世相を現わした最近の小説の傾向なのかもしれない。

安定企業で採用の仕事をして、いわば”通常レール”の王道を突き進んでる私からすると、普段は遮断して、でも自分の中でちぐはぐな部分をくすぐる。

そうした小説の後に読んだのが、恩田陸「蜜蜂と遠雷」。
2017年の直木賞と本屋大賞ダブル受賞作。

ピアノコンクールを通した天才たちの群像劇とはいえ、音楽、芸術、宇宙の摂理、人の営みに対する洞察が深く、ものすごく深遠。
その洞察がピアノの音色を通して雄弁に語られる。どんな音色なんだろう、と純粋に聞いてみたくなる。

狭い枠に押し込められた音楽を元の外の世界に還す。美しさだけでなく凶暴さも兼ね備えた自然へ。

風間塵(野生児なのにフェアリー感がある少年。存在自体がすでに矛盾)が捉える音楽は森羅万象のあれこれを音で表したもの。

彼が弾くピアノは、端正さとはかけ離れている。
自然がそうであるように、凶暴さ、禍々しさ、残酷さといった修羅の面も表現するので、あまりに品が無い、むき出し過ぎと眉をひそめ、全否定する審査員もいる。

でも、彼が触媒になって、他のコンテスタントたちが呼応し起爆する。

心に残った描写はいくつかあるけれど、そのひとつが華道家と風間塵の応答。
華道家の主人に、さっきまで生きていた花を殺して、さも生きてるかのように活けるのは矛盾してないかと問う風間塵に、華道家が答える場面。

そもそも我々は何かを殺生しなくては生きていけないという矛盾した存在なんだ。(中略)食べるという行為の楽しさは、罪深さと紙一重だ。僕は野活けをする時に、いつも後ろめたさや罪深さを感じているよ。だから活けた一瞬を最上のものにするよう努力している。
(中略)最上の一瞬を作る瞬間は、活けている僕も最上の一瞬を生きていると実感できる。その瞬間は永遠でもあるんだから、永遠に生きているとも言えるね。

「蜜蜂と遠雷」本文より

風間塵に影響を受けた、栄伝亜夜が弾くピアノは哲学的で深淵。

たゆたうときの流れの底に沈んでいるさみしさ、普段は感じていないふりをしている、感じる暇もない日常生活の裏にぴったりと張り付いているさみしさ。たとえ誰もが羨む幸福の絶頂にあっても、満たされた人生であったとしても、すべての幸福はやはり人という生き物のさみしさをいつも後ろに背負っている。それについては深く考えてはいけない、一度気付いてしまったら打ちのめされてしまう、おのれの弱い部分に気づいてしまう。そう思って避けてきたはずの、根源的な「さみしさ」を。だからこそ、あたしたちは歌わずにはいられない。

「蜜蜂と遠雷」本文より

自然はおぞましいものでもあるけど、季節は規則正しく巡り春がやってきて芽吹く。その凶暴さも含めて美しく、その壮大さも含めていとおしい。

人もまた、幸せでありながら同時に寂しさも抱えていて、矛盾してるけどそれが愛おしい。

むしろそうした矛盾こそが美しい。

なるほど。
ちぐはぐさがその人の輝きであって、味のある部分なんだな。逆に矛盾してなくてキレイな人間は味気なくておもしろくない。

そのちぐはぐさを首尾一貫してないと捉えると苦しいけど、まるって愛でて包み込むように全肯定すると気楽になる。

だから、人の可能性を伸ばしたいって願いながら、人をジャッジしてるなぁ、なんて矛盾にうじうじする自分もかわいいもんだ。

ちなみに、こりゃ全力で不合格だと思う応募者、特にどの会社でも不合格になるだろうと思わせる応募者には、心の内で「どこかで幸せに暮らせますように」って「お祈りメール」を地で行くことをしてる。不合格でもあなたの人間性は損なわれないし、良さが開花する場所はきっとあるよ。

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