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期待されることがしんどくてしかたない

この度、7月1日付で昇格することになりました。

「おめでとう!亅
「頑張りが認められて良かったね!」
「これからも期待してるよ!(次はぜひ管理職を目指してね)」

と、一通りのお祝いや激励の言葉をいただいたのですが、(そりゃ喜ばしく祝福される出来事だよね、と理解はできるけど)素直に受け取れない。

というか、苦しい。逃げたい。この枠組みから。

最初に昇格の話をいただいた3月末の時点でも、認められたうれしさはかすかなもんで、それよりも逃げたい気持ちでいっぱいで。
昇格の話とともに上司から評価ポイントとして告げられたのが「やり遂げる力」だったので、なおさら暗澹たる気持ちになってしまったのです。
なぜなら、3月までの半年間で同僚がぼこぼこ辞めていき、担当外の仕事を引継ぎも不十分ななか無理くりこなしていて、そういう状態の「やり遂げる」を評価するってことは、まだこういう自己犠牲的な世界が続くんだと暗い気持ちになったのです。

こんなに苦しい「やり遂げる」を評価するなら評価なんていらない、昇格もしたくない(だって期待役割が上がると仕事がオンされるだけだから)という思いがあったので、評価って別にされなくてもいいんですけどって話すと、頑張っている人に評価という形で報いるのは上司としての役割なんだから、評価なんかどうでもいいですっていうのは違うよね、と言われ、

やり遂げるなんてあたり前じゃないですか?それが昇格理由だったら自信を持てない。と話すと、

やり遂げるって大事だからねと、私には答えになってない答えが返ってきて、もういいです結構ですこの話は以上で、って投げやりな気分になったのでした。

あぁめくるめく「御恩と奉公」の世界…。御恩(=評価、給与)を得るために、(滅私)奉公、(滅私)奉公をどこまで続けなければいけないのか。

「やり遂げる」ことに自己犠牲的に取り組んだうえでの「評価」なので、もう自己犠牲がデフォルトになっちゃうな。やだしんどいむり、となったわけです。

さらには、上司にはマネジメントの一環として、部下を一段高いレベルにあげて経験を積ませるという重要な役割があることも理解していて、理解しているからこそ、わたしがちょうどいいおあつらえな存在として白羽の矢がたってしまったんじゃないか。
上司としての育成の役割、きちんとできてまっせと外に証明するためのコマになったというか。そんな穿った考えもよぎるくらいひねくれた思いでいっぱい。(つまりは、上司への不信感が拭えない)

こんな超絶めんどくせー屁理屈を友達に話してたら、

「期待と評価をセットで考えるから苦しいんじゃないの」と言われました。あっさりと。

期待は応えようとしすぎなくていい

「『期待』は未来にベクトルがあって、『評価』は過去のことだから別物なのに、それを一緒にしてるね。期待は絶対応えねばならぬ命令と思ってるし。そりゃそういうとらえ方してると評価いりませんって思うよね。だってしんどいもん」

思えば、期待されると仕事(=やりたくない仕事)がオンされると思ってる。仕事を苦役みたいに捉えてる。だから苦しい。やりたくない仕事を、一生やり続ける負のスパイラルにはまるから。

だけど確かに期待してるとは言われるけど、自分を殺しなさいとは言われてない。

そういえば新しく着任した部長からは、「採用の仕事に追われる毎日でやりたい仕事ができていないと思うけど、早く体制や環境を整えたいと思ってます」と出張先から昇格祝いのメールをいただいたし、(採用の仕事はやりがいあるだろ?と言ってきた前部長との格の違いよ笑)

前の部署で一緒に働いた先輩からは、「頑張らなくていいんだよ。いまのままでじゅうぶん」って言われたんでした。

いまの環境が私にとって不本意だって理解してくれる人もいるし、いまの取り組み姿勢で十分で、足らないなにかを埋めようと必死にならなくていいと言ってくれる人もいる。

一晩たってしみる。二人の祝福のメッセージを素直に受け取れる。

やりたい仕事に費やす時間が増えれば苦役は減るし、自分で思ってる以上に自分の成し遂げたことに価値があるしまわりもそう言ってるのに、自分が受け取ってないだけなのかも。自分の捉え方次第。

それから、受け取らないがゆえに埋まらない充足感を埋めるために、自己犠牲的に仕事を取りに行って自分で苦しい思いをしに行ってる。ドMか。


でもなー。こういうのって根深いから、いま気づいてもまた同じことをやっちゃうんだよなー。

「我慢と犠牲」の世界から足を洗いたい、その世界を作り変えたいと、会社の偉い人たちの応酬を冷ややかに眺めながら思ってたけど、自分が変わってないってことね…。

あー、こうして行きつ戻りつの感じを繰り返していくのでしょうね。


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