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私が自衛隊を辞めた理由(第2章)

私が仙台で英語を教え始めたのは20代前半の頃。初めての人事異動で緊張もありましたが、新しい役割にとてもワクワクしていたのを覚えています。
若気の至りですが自信もそれなりにあり、意気揚々と教壇に立ちました。
しかし、「井の中の蛙大海を知らず」とは私のことで、はじめの1年はまったくと言っていいほど上手くいきませんでした…。

夜遅くまで周到に用意したつもりの授業も、学生から出てくる質問に答えられなかったり、答えられないのが悔しくて、その場で取り繕ってしまったこともありました。余計にかっこわるいですよねw。先輩からも毎日のようにダメ出しをされ、精神的に落ち込んだ時期もありました。
私は悔しい気持ちもありましたが、「英語をもっと分かりやすく、楽しく教えられるようになりたい。」という想いを原動力にして毎日勉強しました。私が担当していたのは基礎コース、つまり出発点に位置づけられる教育だったので、「せっかく入校してくれた生徒たちに英語嫌いになって欲しくはない!」という想いが強かったですね。

時間の経過と共に少しずつ知識も付き、徐々に自信を取り戻すことができました。井の中の蛙が庭の小さな池くらいは自由に泳げるようになった程度でしょうか。

学生とも色々オープンに話をするようになり、良い人間関係を築くことができていたと思います。退職して2年経った今でも私を慕って相談を持ちかけてくれる後輩もいます。本当に嬉しい限りですし、期待に応えられるようにもっと勉強しなければ、という気持ちにさせてもらっています。感謝ですね。

余談ですが、いわゆる先生という仕事は半自動的に授業というアウトプットの場が用意されているので、学びを自分の中に落とし込むサイクルが自然に出来上がる、成長するには非常に良い環境でした。やはり学びというのは実践し、人に教えて初めて身に付くものですね。もしそのような機会に恵まれ、躊躇されている方がいるのなら、謙遜せずにぜひチャレンジしていただきたいなと思います。

2、3年目ともなると一通りの事はこなせるようになり、より生徒の事に注力したり、授業の内容もプラスαを考えたり、質を改善しようという余裕も出てきます。しかし、そんな矢先に衝撃的な出来事がありました。

2011年3月11日14時46分。東日本大震災の発災です。
(写真引用元:https://www.kahoku.co.jp/history.html)

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当時私が所属していた部隊は教育隊であったため、すぐに現場出動とはなりませんでした。もどかしい気持ちもありましたし、当時妊婦だった妻や実家の事も気がかりでした。国が大変な時ほど家族と一緒に過ごせないのは自衛官の宿命ですね。

数日が経ち、被害状況も徐々に明らかになってきた頃、私の元に以下のような一報が入りました。

「災害派遣活動を米軍と共同で行うことになった。通訳が必要になるから司令部に来てくれ。」

私の胸は使命感に燃える気持ちと不安でいっぱいでした。平時であればどこの部隊にも数名の語学の心得のある隊員がいるのですが、当時はほぼ全ての隊員が災害派遣に従事していたため、司令部に入った通訳は私を含め3名だけでした。数も実力も決して十分と言える体制ではありません。

今でもはっきりと覚えていますが、最初の任務は山形空港へ米軍の先遣隊を出迎えに行くという仕事でした。現地にはメディアも来ており、私はインタビューの通訳をすることとなりました。頭と心の準備が追いつかない状況の中、容赦ないスピードで繰り広げられる質問と回答の嵐に泣きそうになった記憶があります。

司令部の作戦室でも普段目にすることもない偉い階級の方々が災害時の緊張下で、高度な調整をしていました。全員寝不足と極度のストレスにさらされており空気はピリピリしていました。私はまったく生きた心地がしませんでしたが、外の現場では実際に”命”に向き合っている方々がいる状況でそんなことは言っていられません。

ちなみに【通訳=英語が出来る人がやる仕事】というイメージがあるかもしれませんが、それはあくまでも最低条件であり、前提です。通訳をする上で最も重要なのはその話題の背景知識をいかに把握しているかということや、瞬時に相手の言葉や表情から話の枝葉と幹を見極めるコミュニケーションの瞬発力です。

背景知識という点において当時の私は絶望的なレベルでしたが、なんとか周囲の力を借りながらギリギリの状態で役割を全うしていました。時間の経過と共に私の知識も徐々に追いつき、全国から実力ある通訳の方々も集まってきてくださったので、私は司令部を離れ、現場に出るようになっていきました。

現場というのは米軍のトモダチ作戦(復旧、生活支援、慰問活動など)が行われている現場になります。個人的に特徴的で印象に残っている仕事は、現地で活動する米軍兵士に対して牛丼チェーンの吉野家さんがトラックで牛丼をふるまう際の通訳や米軍楽隊の慰問演奏会に同行して司会をやるという仕事もありました。住民のアンコールで予定外の知らない曲名が次々と出てくるときは全く訳出することが出来なくて申し訳なかったです…。通訳として吉野家の店長さんが言いそうなフレーズや料理、牛丼関連用語を一生懸命シミュレーションしたり、不慣れな音楽用語を短時間で詰め込み予習していたことをはっきり覚えていますw。結果的にはどちらも非常に喜んでいただけたので良かったです。(写真引用元:https://www.mod.go.jp/js/Activity/Gallery/touhoku_earthquake_g01.htm)

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そんな生活は夏まで約半年間続きました。私の任務も解かれ、元の教育隊へようやく復帰したのですが、その一ヶ月後に私はまた司令部に戻ることとなります。

今度は日米共同で実施する大規模演習のプロジェクトチームに加えていただくこととなったのです。任務達成のご褒美は次の任務というやつですね。

ちなみにこのプロジェクトチームというのはひとつの演習を行うために約2年間かけて企画や調整を行う10名程度のチームで、幹部の階級を持つリーダー級の方々と必要な専門スキルを持つメンバーで構成されています。私はその中で通訳や翻訳の仕事を主に担当していました。写真は演習のオープニングセレモニーの様子です。(引用元:https://www.facebook.com/yamasakura/photos/a.1482724785180326/1482725095180295)

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このプロジェクトを通じた司令部での勤務経験で私の世界は大きく広がりました。海外へ行く機会もあり、実際の行動範囲が広がったという意味もありますが、それよりも日米の多くの人や組織と関わる事ができるようになったことが私の大きな財産となりました。特に、通訳という役職に就かせていただいたおかげで、通常私の立場では知ることが無い世界を知ることができました。当然良いことばかりでもありませんでしたが、その点を考慮しても「こんなにやりがいを感じられる面白い仕事があったのか!」という感動を日常的に味わうことができました。

この2年間にどんなことがあったのか、詳細まではここでお話しませんが、興味のある方はぜひ個人的にご連絡ください。保全上問題の無い範囲でお話しますw。

”2年間”と言いましたが、退職までに私はこの役割に2度、3度と関わる事になり、約5年間、つまり16年間の自衛官キャリアの約3分の1をこの演習に向き合って過ごしていたことになります。非常に思い入れが深い仕事にはなるのですが、結果として私が退職を考えるきっかけにもなる仕事となりました。(第3章へ…)

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