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回帰する核家族の未来(完) おわりに。再び幸せな家族と不幸な家族について

より続く)

「幸福な家庭は決まり切ったかたちしかないが、不幸な家庭のかたちはさまざまである」

トルストイ『アンナ・カレーニナ』

様々な不幸

冒頭に紹介したトルストイの言葉を、アントニオ・ダマシオは『デカルトの誤り』という脳神経学に関する論文の最後に引用して、こう言っている。ポジティヴな情動よりネガティヴな情動の方がはるかに多くの種類があるし、脳がポジティヴな情動とネガティヴな情動とを異なった機構で扱っているのも明らかだ。こうしたことが生物としての人間が生き延びきたことに寄与してきたのであり、快を求めることに支配された個人や社会が、苦を避けることによるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、生存できるとは想像しがたい、と。

幸福については近年、経済学や心理学をはじめ多くの科学分野で、最も重要な概念として研究が進められてきた。左脳の働きが強い個人の方が幸福を感じやすいこと、また、幸福の感じやすさの個人差は遺伝的影響が強いこと。科学的探究によって検証されたこれらの事実は、現代の、あるいはこれからの社会の行く末に大きな意味を持つだろう。

だが、幸福、いや不幸とはそんなに単純なものだろうか。脳神経学の論文の最後に近代文学の名文を引用したダマシオの脳裏には、経済学や心理学がこうした概念を厳密に定義してアプローチしようとも、その限界がちらついて見えていたのではないか。少なくとも幸福だけではなく、不幸についても研究の手を伸ばさなければ見つけられない真実がそこにはあるはずだ、と。ダマシオがこの論文の最終章(補遺)で言いたかったことは、少なくとも快と不快とは互いに双対関係にはないし、鏡像関係にある概念でもないことを脳神経の機構は示唆している、というまさにその点にほかならない。

文学をはじめ芸術は、極めて複雑な感情をもたらす。ベートーヴェンの「第九」は、殺気だった狂乱のうちに壮大な人類愛を聴衆の体中に響き渡らせるだろう。ゴーギャンの「タヒチの女」は、単純な手作業に勤しむ母親の野性的なまでのバイタリティのうちに深い悲しみを感じさせる。それらは喜びと悲しみの混合であり、快と不快の混合である。こうした複雑な感情を理解するためには、明らかに幸福に対するアプローチだけでは不十分だ。

芸術の歴史は、言うまでもなく経済学や心理学の歴史よりも古い。ネアンデルタール人が、あるいは我々の先祖が描いた壁画にどんな意味があるのか、彼らがどんな感情を持ってそれらに接していたのかは、想像することしかできない。だが、彼らが当時から家族とともに生きていたのは間違いないし、それが、トッドの言うように、非定型でときには未分化のアルカイックな核家族だったのだとしたら、つまり現代においても増えつつあるさまざまな家族の不幸のかたちをなしていたとするなら、そこにあった不幸はどんなものだったのか思いを馳せてみることがあっても良いだろう。

ダマシオが指摘するように、快とは全く別に不快があったからこそ、つまり幸福とは全く別に不幸があったからこそ、これまで人間は生き延びてきたのかもしれない。だが、それは、他の動物には真似できない芸術とともにある素晴らしい文明であり、人生だったのだ。

(完)
筆・田辺龍二郎


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