#1 デザインをキュレーションするということ:コンテンポラリーキュレーションとは何か?(前半)

「ロンドンの大学院でなに勉強したの?」

「コンテンポラリーデザインのキュレーション。」

「それってなに?」

「・・・」

昨年10月修士課程を終了し日本に帰ってきてから2ヶ月。この質問にうまく答えられない自分がもどかしい。そもそもキュレーションの意味自体が広義かつ変わり続けている上に、それに加えてデザインの定義までもが果てしなく拡大し続けている今「コンテンポラリーデザインをキュレーションするということについて」挨拶程度に交わされる会話の中で説明するのは至難の技だ、と思う。と同時に、それは自分の思考整理が足りていないからかもしれないとも思う。そこで、このnoteを立ち上げることにしました。

「コンテンポラリーデザインをキュレーションする」という、現状定義やまとまった文献が存在しない(と思う)領域について、私が修士で学んだ理論や実践、さらに欧州で見聞きした事例を交えながら「書きながら考える場」になっていけたらと考えています。そして、この領域に関わる有識者や実践者のみなさまからも学ばせて頂ける場になれたら幸いです。


今後の流れと前提

まず第一回目の本記事では、デザインキュレーションを考える前に「コンテンポラリーなキュレーションのあり方について」、Paul O’Neill著『The Culture of Curating and The Curating of Cultures(s)』で言及されるキュレーション史と、Terry Smith 著の『Thinking Contemporary Curating』を引用しながら、新時代のキュレーター の役割や態度について、前編・後編に分けて理論・実践の両面から考えていきたいと思います。

続いて第二回目では、人類学者Arturo Escobarの『Design for the Pluriverse』や、デザイン思想家Tony Fryの『Defuturing』などのデザインにおける存在論的転回を参照しながら、「コンテンポラリーデザインの現在と今後の行方」について考えていきます。

そして最後に、第一回目で確認したコンテンポラリーキュレーションの理論や役割を考慮しながら、いかにしてコンテンポラリーデザインをキュレーションしていくことができるのか。そのありうる方法や、その領域が社会に投げかけるべき問いなどについて考えていきます。



では早速、「コンテンポラリーキュレーションのあり方」について考えていきたいのですが、その前に前提の共有です。「コンテンポラリーキュレーション」にまつわる言説や理論は、アート、特に「美術展示」にまつわる領域から生まれています。私がここから参照するキュレーションに関する言説は全て「デザイン」に端を発するものではなく、「アート」の領域で議論され確立されてきた内容であることを前提にお読み頂ければ幸いです。

それではまず、O’Neillの文献を参考にしながらキュレーション史を見ていきましょう。


1920年代〜1960年代:「ケアする人」から「展示を媒体化させる人」へ

多くの人々が知るように、キュレーターは元々、美術館や博物館などの「コレクション収集を行う場所」に属し、それらの収集品を「ケアする」という役割を担っていました。O’Neillによると、この「ケアする人としてのキュレーター (Curator-as-carer)」は1920年代から少しづつ変化し、1960年代以降はその役割が「積極的で創造的、かつアート自体の制作・媒介・普及といった政治的な役割を担う存在であると認識されるようになっていた」といいます(2012, p.9)。

このようなキュレーター の役割変化が起きたきっかけとして、O’Neillはグループ展の存在をあげています。組織に属さないインディペンデントキュレーター たちが「同じような関心を持つと思われるアーティストたちや関連作品をグルーピングし展示したことが、その展示自体を媒体化させるという形式を作った」と分析しています(2012, p.16)。彼はまた、次のような表現でこの変化を説明しています:

美術展が、(アーティストではなく)その美術展の制作者と共に認識されるようになったということであり、(作品だけでなく)キュレーター の固有のスタイルと共に展示が存在するようになった、ということだ。そして、美術展自体がキュレーター の能力、つまり複数の異なる作品をひとつのまとまった実在として文脈化するに能力によって存在するようになったということだ。

(O'Neill, 2012, p.16)
 

これらのO’Neillの言葉をもう少し簡単に理解すると、キュレーター の役割が「作品を保管し展示する」という受け身の姿勢から、「作品群を通して文脈を作り、特定のメッセージを伝える存在に変化した」ということだと思います。つまり、キュレーター が発信者としての役割を帯びるようになったことで、ギャラリーや美術館が「作品を収納する箱」から「特定のメッセージを発するための媒体・ナラティブ空間」となったということです。

キュレーション史におけるこの時代区分を、「クリエイターとしてのキュレーター (Curator-as-creator)」時代とO’Neillは形容していますが、注意すべき点は、この「クリエイター化」については、「キュレーター が作品を自己主張のために利用している」とする批判意見も多く、決してポジティブな意味のみでO’Neillがこう表現しているわけではないという点です。

また現在では、アーティストがキュレーター として展示を企画することも多く、キューレーター/アーティストの役割定義はますます曖昧化し、キュレーター のオーサーシップに関する議論は続いています。ですが、その議論はここでは割愛し、次の時代をみていきましょう。


1990年代:グローバリズム、多文化主義、ビエンナーレの反省

1980年代後半から広がりをみせた国際展、さらにはビエンナーレ、トリエンナーレといった大規模国際芸術祭の形式が1990年代に世界的に定着することで「クリエイターとしてのキュレーター (Curator-as-creator)」時代は、新たな展開へと向かいます。ここでhは、その転機となったビエンナーレについて見ていきたいと思います。


「世界の見え方を示す場」としてのビエンナーレ

ビエンナーレは世界的なグローバライゼーションや多文化主義を背景に誕生した芸術祭の形式であるとされています。ゆえに、ビエンナーレの存在自体が「グローバルな統合、相互依存の加速、世界状況への関心、地域間の勢力関係といったグローバリゼーションに関するアイディアを支持する」といわれています(O'Neill, 2012, p.62)。

そしてそのような誕生背景を受けて、ビエンナーレは「異なる文化・時間・場所の融合として世界を提示」するよう志向していきます(O'Neill, 2012, 62)。もちろん各地の各時代によって若干提示されるテーマや世界観は異なりますが、O’Neillは上記のように1990年代のビエンナーレの傾向を説明しており、この「世界文化に関する見解の提示」はキュレーターによって行われていくようになります。

「文化を超えたキュレーション」の問題点

ビエンナーレの文脈において、キュレーター達は自らが属する文化を超えたキュレーション「トランスカルチュラル・キュレーティング(Transcultural Curating)」を実践し、世界の様々な場所から芸術活動やアーティストを選び、「グローバルな文化に関するステイトメントしての美術展を作る役割」を担うようになります(O'Neill, 2012, p.62)。O’Neillはこの時代を「世界の著者としてのキュレーター (curator-as-global author)」と表現していますが、この方法や態度自体が後に問題を生んでいくことになります。

つまり、ビエンナーレが「世界の文化、世界の見え方への見解を提示する場」であり、それがキュレーター の視点によって行われる場合、常に「選ぶ側 / 選ばれる側」が存在するということになります。そして、その二者間には平等とは言い難い力関係が存在することになります。

この、「文化をキュレーションする側(Curating cultures)」と「キュレーションされる文化側(Curated cultures)」の力関係についてGerardo Mosquereは以下のように考察しています:

「文化をキュレーションする側」と「キュレーションされる文化側」には常に非対称な関係性が存在する。それは、自らの文化を超えたキュレーション(Transnational curating)が、「キュレーションされる文化側」を、確立された西洋の規範へと統合していく政治的なツールとして、常に利用されうるということです。つまり、その行為は西洋の規範や価値システムの基盤へと、(キュレーションされる文化側を)集約していくプロセスといえるでしょう。

(O'Neill, 2012, p.60)


まとめると、ビエンナーレというグローバリゼーションや多文化主義を志向した国際展示は、かつての西洋芸術史において扱われることのなかった世界の文化やアーティストを世界に提示し、活躍するきっかけを作った。しかしその一方で、結局のところ、Mosquereの考察が示すようにそのキュレーション方法や態度における問題や、ビエンナーレのシステムそのものが資本主義的・搾取的システムによって運営されていることもあり、「中心 / 辺境」「グローバル / ローカル」「西洋 / 非西洋」といった、コロニアリズムに端を発し、資本主義においても継続する力関係やシステムを再生産しただけになってしまったということです。

そして、この1990年代のビエンナーレにおける反省を経て、キュレーション史は次のフェーズへと移行していきます。


1990年代後半〜現在:展示空間の外へ

1990年代に開催されたビエンナーレを観察しながら、O’Neillは「3つの限界」を反省点として指摘しています。

  • 「ひとりのオーサーシップによる展示企画(singly authored exhibition)」の限界

  • 「美術展の瞬間自体を(それ自体で)独立したキュラトリアルな存在と捉えること」への限界

  • 「美術展を固定的で期間限定のイベントとすること」への限界

この反省点を生かすように、1990年代後半からは主に次のようなキュレーション実践が生まれていくようになります。

ひとつ目は、共同キュレーションやグループキュレーションという手法。例えばDocumenta 11のアーティスティックディレクターであるOkwui Enwezorは、他のキュレーター を招き入れ、彼ら・彼女らと共にシンクタンクを創設。Enwezorはそのシンクタンクメンバーと共同で、展示コンセプトや内容を企画。作品の文脈づけを行うテキストについても、このシンクタンクメンバーに提供してもらう方法を採用しています。

二つ目の変化。これは個人的に「コンテンポラリーキュレーション」を理解するために最も重要な変化だと思っています。それは、キュレーターの活動範囲が「美術館の外」へと広がっていったことです。

O’Neillが「キュラトリアル空間の治外法権化(”extraterritorialization” of the curatorial space)」と表現するこの流れは、つまり、キュレーター が手掛ける領域が美術展以外のフォーマット(ディスカッション、レクチャー、出版物、イベント、パフォーマンス、off-siteプロジェクトなど、ラーニングプログラム)に変化したことを指します。

このキュレーター の活動範囲の広がりは、1990年代の反省を元にビエンナーレという場所の意味自体が変化したこととも関係しています。

O’Neillは現在のビエンナーレの一部は「知の生産と知的ディベートの媒体となることを目指している」と分析しており(2012, p.81)、それは確かに、1990年代のビエンナーレの「世界文化や世界のあり方を示す場」としての権威的スタンスとは全く異なります。

個人的にもおそらくこのような「文化の場を、コロニアリズムや資本主義の延長ではない"オルタナティブな知の生産を行う場所"」として位置付ける動きや、そのような場をアクティベートするためのキュレーターの役割は、今後ますます増えていくのではないかと考えています。


まとめ:コンテンポラリーキュレーションとは何か?

ここまでコンテンポラリーキュレーション史について、大幅に抜粋しながらも見てきたわけですが、ここまでの流れを理解しながら、じゃあ最終的にコンテンポラリーキュレーションとは何か、と2023年の現時点から考えると、Smithの定義「コンテンポラリーキュレーター とは、プロセスシェイパー(process shapers)でありプログラムビルダー(program builders)である」がしっくりくるのではないかと思っています。
 

プロセスシェイパー/プログラムビルダーとしてのキュレーター 

Smithは、コレクションを作る人(collection builder)や展示を作る人(exhibition maker)が英雄的モデルであった一方で 、コンテンポラリーキュレーションにおいては、そのモデルはプロセスシェイパーやプログラムビルダーといった役割へと変化していると考察しています。Smithは次のようにその定義を詳しく説明しています:

(プロセスシェイパーやプログラムビルダーとは、)大きな文脈とその地域におけるニーズ、そしてこれらのスケール間の複雑なつながりを見る能力を持ち、アートの動きを追跡し、実験性にコミットし、アート制作に参加するすべての人の可能性を開く持続的なプログラムを作成することによって、その可能性と効果を形作ることができる人たちです。

(Smith, 2012, p.293)

もっと簡単な言葉でいうと、「アカデミックな言説と地域のリアリティー、それらの複雑な繋がりを考慮しながら、”実験的かつ継続的文化プログラム”を設計し、プロセスとして実践できる人物」ということです。

また、Smithはこのようなコンテンポラリーキュレーター としての実践と、プラットフォームを作ることの類似性に触れながら、新時代のキュレーターの態度を次のように説明しています:

このような矛盾を抱えた現代において、キュレーションとは、「世代を超え、地域を超え、プログラムの優先順位と組織構造に対する多層的なアプローチ」を追求し、場所の特殊性と適切な国際的・地域的要因とを結びつける、柔軟なプラットフォーム構築の実践でなければならないのです。

(Smith, 2012, p.292-293)

動作としての「キュレーティング」から態度としての「キュラトリアル」へ

コンテンポラリーキュレーションについて考える際、注目したい点が最後にもう一つ。それはSmithが、「キュレーティング(Curating)」という言葉ではなく、「キュラトリアル(Curatorial)」という語の使用によってそのひらかれた態度を説明しようとする点です。

Smithの定義によると「キュレーティング」とは従来的なキュレーター としての業務。例えば美術展の企画・制作、コミッション作品のマネジメント、展示に紐づいたプログラムを行うことを指しています。その一方で「キュラトリアル」とは、芸術における方法論を出発点としつつも、その方法論を特定の文脈・時間・問いの関係性に置き、現状に挑むための方法として使用することである、と述べます

ある意味で「キュラトリアル」とは批判的な思考です。それは、それ自体を具体化しようと急がず、私たちが予測できなかったかもしれない何らかの方向を示すまで、疑問と共にそこに留まることを可能にする … そして、「キュラトリアル」に移行することは、私たちがまだ知らない、あるいは世界の中でまだ主体となっていない物事を探求する能力を制限する、あらゆるカテゴリーと実践から、作品を「解き放つ」機会なのです。

(Smith, 2012, p.49)

2021年〜2022年の修士留学期間を通して、私が欧州で目にした展示やアートプロジェクト、美術館や国際展の取り組みにおけるキューレーターの役割を振り返ると、確かにこのSmithによる定義と共鳴点が多いと感じます。

「新しい」とされる欧州の取り組みの多くは、その場所・そこにいる人々と共に「どのようにして、(コロニアリズムや資本主義の延長ではない)世界に存在する状態をつくることができるか?」という問いに基づくものが多く、それは必ずしも展示という形式というよりも「アカデミックな理論に根ざした文化プログラム/プロジェクト」というニュアンスが強いからです。そして、そのような文化プログラムはSmithがいうような「現状に挑むための方法」として企画・実践されていました。

このような文化プログラムは、欧州における「デコロニアル(Decolonial )」な動きと連動していることが多いのですが、ものすごく長くなってしまったので、今回はここまで。

次回は、「#1 デザインをキュレーションするということ:コンテンポラリーキュレーションとは何か?」の後編として、Smithが定義する新時代のキュレーター 像を事例と共に理解することを目指しつつ、欧州の文化セクターにおけるデコロニアルな実践についても少しご紹介していきたいと思います。



[参考文献]
O'Neill, P. (2012) The Culture of Curating and The Curating of Cultures(s). Cambridge: The MIT Press. 
Smith, T. (2012) Thinking Contemporary Curating Curating. New York: Independent Curators International.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?