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境界線=ルールとの戦い。あたらよ『はい、げんきです。』を観て思ったこと


8月22日、京都の華山寺というお寺で劇を観てきた。

あたらよという劇団の『はい、げんきです。』という劇だ。

いろいろ計算されていて、新しさもあって、考えさせられもする、とても面白い公演だった。

まず、お寺で劇を観るのは初めての体験だったし、それだけでも新鮮だったのだけど……

入場してからもびっくりした。

会場は、畳張りの和室に長机が並べてある。

客席は二つに分かれて向かい合い、そのあいだに二つの長机があって、役者はそこで演技をする。

つまり、舞台と客席のあいだに明確な境界線がない。

「境界線」はこの劇を貫く大きなキーワードだと思う。

客席から横を見れば縁側と庭、木々と空。

劇中で役者は庭とお寺のなかを行ったりきたりする。

つまり、「屋内」と「屋外」の境界もない。

ここまでは「空間」における境界の話だが……

この夏休みの時期に、「夏休みの子供たち」のストーリーを演じるという点で、「時間」的な境界もないし……

「現実」と「フィクション」の境界も、いろんな点で透明化するよう工夫が凝らされていた。

舞台が始まる前に、ずっと会場内にいた役所の人が、注意事項を説明する。

スマートフォンなど、音の出る機器の電源は切っておいてくださいね……とか、そういう話なのだが、

実はこの役所の人、劇の登場人物の一人。

注意事項から「夏休みはこのスペースを子供たちに貸し出してるんですよ~」という話になって、そのままいつのまにか本編が始まる。

現実と舞台の境界が消えている。

休憩時間にも、途中で子供の姿をした役者が入ってきて座っていたりする。

観客が話している横で役者が机に向かって宿題をしている。

すぐ近くで、同じ床に座って。

こんな光景あるか?すげー自由だな。と思った。

劇の内容以前に、空間そのものが今までに出会ったことのないものというか。

役者の演じる舞台上の物語と同じ時空間を、観客も生きている

みたいな。

ある意味バーチャルリアリティのような、現実と虚構がごちゃ混ぜになった異次元空間を感じた。

それを「子供たちの夏休み」というすごくミニマルな設定だけでやってるのもすごい。アイデアの勝利だと思う。

劇が終わった後も向こうでずっと子供たち(役者)のはしゃぎ声が聞こえてるし……観客が帰るまでずっとやってた。

「あ、この劇、終わったけどまだ終わってないんだ」と思った。

それはちょっと怖かった。いつまでもフィクションの世界から解放されないような。

こんな風に、『はい、げんきです。』はさまざまな「境界線」を壊そうとする。

「境界線」とは「ルール」だ。

「ここまでが舞台です」「ここからは客席です」

演劇はそういう「線引き」、「ルール」でできている。

でもその「ルール」って誰が決めたんだ?

「大人が決めました」

『はい、げんきです。』の後半で語られるのは、この「大人のルール」による子供たちへの見えない暴力である。

「子供は無知で、無力なので、間違えます」

「弱い子供たちが間違えないように、大人が正してあげなければなりません」

「これが『ルール』です。『正解』です。『正解』から外れた子供は、『失格』です」

たとえば、草花の絵をいろんな色で塗っていた男の子は、

「葉っぱは緑で塗らなきゃいけないんだよ。それが正解なんだよ」

と言われ、緑のクレヨンでノートをぐちゃぐちゃに塗り潰す。

彼には彼なりの、表現への思いがあったかもしれない。

なぜそこをその色で塗ったのか。言葉で説明するのは難しいだろうけど、だからこそそれは塗り潰されるべきものではないのだ。

でも、「正解」にとらわれた大人は「それ以外」を否定する。

「子供たちを守らなければ」という善意によって。

善意だからこそ、自分は正しいと思っているからこそ止まらない。

それが難しいところで、「正解(ルール)に従えば社会で安全に暮らしやすい」というのも事実なのだ。

「ルール」は大多数の人間に、最大公約数的な利益をもたらすために存在する。

効率的に利益をもたらすため。

それがルールの存在目的だが、いつのまにかルールそのものが正解となって、それを守ることが目的化する。

強制されるルールは、人に利益をもたらすという当初の目的を忘れ、人を不幸にすることもある。

劇中で、「正解」に従った子供は赤ペンで頬に花丸を描かれる。

「よくできました!合格です!『大人』に一歩近づきましたね!」

「テスト」や「学歴」って、結局本質的にはそういうものなのだろう。

たくさんの「正解」を言われる通りこなしてきた子供に与えられる花丸。

社会で生きやすくなる「しるし」。それが有利なカードであることは間違いない。

だけど子供たちの頬に描かれた花丸は、「呪印」や「奴隷に刻まれる所有印」のたぐいにも見えた。

その「しるし」を得るために、どれほどたくさんの思いや可能性が押し殺されてきたのだろう。

「あの子と遊んではいけません」

「違う。それは誤解なんだ!」

子供たちの言葉は大人に聞き届けられない。

子供は幼く、間違っているから。

大人の言うことの方が正しいから。

そこには何の理屈もない。

「子供」と「大人」という境界線によって生じる「権力の差」が、最初から勝敗を決めている。

僕が社会人になって最初に出会った上司が言っていた。

「仕事は論理(ロジック)で行わなければならない。

上下関係は組織を腐らせる『悪』。

『上の者が言っているから正しい』となった時点で、論理は死ぬ。

下の者は良いアイデアがあっても発言しなくなる。いずれその組織は終わる」

『はい、げんきです。』で語られている「権力の差による見えない暴力」は、子供だけの話ではない。

「上」と「下」の境界線があるところすべてに言える話だ。

学校は社会の縮図。

とはいえ、「上司」と「部下」なら「大人同士」のやり取りなのでまだ救いはある。

構造的には「下」にいる部下でも、一応大人なので自分の考えで反論したり、嫌なら転職することもできる。

子供はそれよりもっと不利な立場にいる。

大人になってから子供のころを振り返り、「あのときの先生の対応って、絶対おかしかったよな」と思うことは多々あった。

でも子供のころはそれがおかしいと気づくこともできなかった。

敏感な子供なら気づくかもしれないが、気づいても大人に逆らうと罰される。

物理的に距離を取って一人で暮らすこともできない。

圧倒的に不利な立場で、ただただ「正しさ」を強制されるというグロテスクな構造。

もはや暴力だ。

もちろん、すべてのルールが悪いわけではないし、世の中には話の通じる大人もいる。

親も先生も大変だろう。完璧な教育ができる完璧な人間などいない。

ただ、少なくとも上に立つ人間(大人、教師、上司、先輩など)は、「自分が正しさという暴力を強制しかねない立場にいる」ことを常に自覚していなければならない。

世間が正しい、一般社会が正しい、常識が正しい、それらのルールに従っている自分が正しい。

そんな傲慢で暴力的な思いこみは捨て去らなければならない。

大切なのは、相手の意見を聞くことだ。

一方的に自分の「正しい意見」を押しつけることは、対話でもコミュニケーションでもない。

相手の心を押し殺す暴力。

劇の前半では、男子と女子が向かい合う構図になっていた。

後半、大人による「指導」が入ってからは、みんな同じ方向を向いて勉強する。

それによってケンカはなくなった。

でも、言いたいことは何も言えなくなって、苦しそうだった。

前半の子供たちは「上手くコミュニケーションができていた」とは言いがたいけれど、少なくとも、素直な言葉で生き生きとしていた。

最終的には、ぶつかって傷つけあうことも自分たちなりに受け止めているように見えた。

不器用でも、いや、不器用だからこそコミュニケーションなのかもしれない。

『はい、げんきです。』がいろんな点で「境界線」をなくそうとしていたのは、

「コミュニケーションの断絶を生むような境界線なら、ぶち壊してしまえ」

という、戦いだったのかなと思う。

ただ、「境界線の破壊」が全面的に肯定されているわけではないのも、バランスが良いと思った。

劇中で、とある女の子が衝撃的なエピソードを語る。

彼女はおそらく、人を殺そうとした。

超えてはいけない境界線(ライン)もある。

その子は作中で「変わった子」と言われている。

劇前半では尖った内容の「観察日記」を書いていて、後半で大人の指導が入ってからは「模範解答」的な絵日記を書くようになるが、結末では再び

「なんで空は青いんだろう?」「子供って何だろう?大人って何だろう?」

みたいな、哲学的なことを書くようになる。

これは彼女が「大人の与える正しさ」ではない、「自分の言葉」を取り戻したという希望にも見えるが……

哲学的な問いを続けていくと、「善悪って何だろう?」「なぜ人を殺してはいけないんだろう?」という、超えてはいけない境界線にも近づいていく。

だからか、結末では希望と恐ろしさの両方がないまぜになっていた。

その二つの感情は、どちらも子供たちの「たくましさ」に由来するのかもしれない。

どれだけ大人が暴力的にルールを押しつけても、子供は内心で反発する。

たくましく成長する。

強くなる。

そしていつか、大人は強くなった子供に殺されるのかもしれない。

復讐、あるいは因果応報。

「大人は、子供が構造的に『弱い』立場になりがちだ、ということを自覚するべき」

と僕はさっき書いた。

しかしそれは下手すると、「子供」という境界線を引くことで彼らを「弱い存在」へと貶めることになるのかも。

彼らのたくましさを信じ、敬意を持つことも大事だ。

ナメてかかってはいけない。

俺も子供のころ思ってたじゃないか。

「大人だろうが何だろうが、包丁で刺せば殺せるし。殺しても少年法あるから死刑にはならない」

太宰治も言っていた。

「親がなくとも子は育つ」

まあ、太宰はそれで子供を残して自殺してるのでダメだと思うけど……

結論、バランスが大事。

いろんな境界線を冷静に見極めて、守ったり壊したりを繰り返しながら、綱渡りみたいに生きていこう。

やさしく、かしこく、たくましく!

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