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水槽の見る夢(後篇)

前篇はこちら⇒水槽の見る夢(前篇)

 私が最初に担当した子供は、永遠に繰り返される夏の夢を見ていた。
「彼は、夢の中で人生を生きています」と職員が私に説明した。「彼は、親の下に生まれ、成長し、幼稚園へ行き、その後、小学校、中学校、高校、大学へ進学し、大手とも零細とも言えない規模の、電気機器メーカーへ入社、三十三歳で結婚し、子供も産まれます。それまで、彼には三十三回の夏が訪れたことになりますが、そのうち、小学生の間に過ごしたいくつかの夏が、特別なものとして、彼を縛り続けます。自分が縛られているという彼の意識は、年を経るにつれて、意識から無意識へ、水面下へ深く、深く潜っていくかに思われるのですが、ある年の夏、妻子とともに地元へ戻り、子供と手を繋いで、実家近くの山中にある池を見たとき、すべてが思い出され、ひっくり返り、ばらばらになって、握っていた子供の手も放して、『あの夏』へ送り還されるのです。彼の中で、引っかかり、わだかまり続けている『あの夏』へ」
「なぜ、そんなことがわかるのですか?」
「施設長が、これまで彼の語った詩、断片を継ぎ接ぎしてつくった、物語です」
「それじゃあ、その物語が正しい保証はないわけですね?」
「ええ。だから、あなたが必要なのです。思考と言葉だけでは、限界があります。あなたの音楽が、我々では埋めることのできない暗部を埋めることにつながると信じています」
「埋まれば、彼はどうなるのでしょうか?」
「先例がないので、わかりません。ただ、少なくとも、我々も、彼の両親も、それを望んでいることは確かです」
「両親、というのは、この現実の?」
「ええ。生まれてから一度も、わが子と会話をしたことがない両親です」
 私はその両親の来し方を想像して、めまいを覚え、床を踏みしめた。
 職員は私をある部屋の前へ連れていき、扉を開けた。
 学校の音楽室を狭くしたような空間に、たくさんの楽器や機材が置かれていた。照明は奥の中央に一つしかなく、スポットライトのようにその下で照らし出され、輝いているのは、金や銀の管楽器が主だ。壁沿いの薄暗がりには、黒い機材たちがひっそりと潜んで、息を止めている。
「道具を選んでください」と職員が言う。「適切だと思うものを。あなたに任せます」
 適切……と言われても。あの物語と目の前の楽器たちが、まるで結びつかない。実際にその子と会ってからではいけないのかと訊こうとしたが、職員は扉の前に仁王立ちしており、楽器を選ぶまで出してくれそうになかった。
 私が、目を大きく開いて唾を飲み、猛獣に触れようとする少女のように手を伸ばして、選んだのは、チューバだった。

 ガラス窓の向こう側は、明るく清潔な部屋で、中央に置かれている子供が入ったカプセルのような水槽以外には何もない。窓のこちら側は暗く、窓の目前に、椅子に座った私がいる。まるで刑務所の面会室のようだと私は思う。体も、心も、囚われているのは向かいにいる子供の方であるはずなのに、私の方が暗い側にいるからか、囚人のように思える。
 水槽の、青い液体の中で眠っている子供を、私の目が見ている。
「準備はいいですか?」と隣に立って向こうを見ている職員が、私に問う。
 準備、というのが、そもそも何を指すのかわからず、どれだけ考えてもそれはわかりそうになかったので、私は機械的にうなずき、チューバを膝の上にのせた。
 窓の向こうで、密閉されていた水槽が上に開き、青い水が周囲の床へ溢れ出した。そして、全身水だらけの子供の顔の中で、両目がカッと開き、私を見た。翡翠のような色をした瞳。それほど純度の高い生気を発している人間の瞳を、私はこれまで、目にしたことがなかった。
 圧倒されていると、子供の口が、腹話術の人形のようにカパッと開き、音を発しはじめた。
 それが、次のような言葉だと気づくまでに、少し時間がかかった。だから最初の方の言葉はただ音として、私の片耳からもう片方の耳へ、流れていってしまったことになる。

 …………池
 若 葉 光の水
 水面 から 女の子の足
 靴 を 鳥が持ち去り くちばしで足の裏 穴開けた
 そのブラックホールに 吸いこまれて眠ると
 丸くなって眠る
 ものほし小屋で昼寝していた
 きみを人影が覆った
 いっそ 怪物だったらよかったのにな?
 どうしてここへ 怪物は きてくれなかったんだろう
 何かいけないことをしたか
 善いことを しすぎたか
 食べにきて 食べにきて
 夏が終わる前に
 私ごと かみくだいたサイダーのびんの
 欠片があなたの歯茎につき刺さったら
 引き抜いてあげる
 大学の
 展示室のショーケースの中へ 飾ってあげる

 きみの死体の引き上げ作業
 楽しかった
 みんな汗をかいて 笑顔で/黄色い太陽の光 草原の上
 これまで生きてきて こんなに生きたことはなかった

 私は、活動を停止していた。
 子供は、今はもう、目と口を閉じていたけれど、その目蓋の向こう、唇の向こうでは、黄金の生が充ち、反響している。まるで喝采のオーケストラのように。
 私は自分の膝の上のチューバを見た。チューバはその黄金色の体を輝かせることなく、押し黙っていた。
「吹けそうですか?」と職員が訊く。
「……演奏の、時間は」
「訊かなくてもお分かりでしょう」
「…………」
 私が、すべて決めるということだ。
 子供はもう動かなかった。動く必要がないのだ。生きて動いている私より、はるかに自分にとって正しい在り方を、子供は見つけているようだった。
 そんな子供に対して、何をどうしろというのだろう?
 そのまま何時間も、ガラスの向こうの子供を見ていた。いつのまにかいなくなっていた職員が戻ってくる足音で、ようやく私は、時間の経過に気づいた。
「どうでしたか」
「…………」
「何も、できませんでしたか」
「……はい」
「わかりました。今日はもう、部屋に戻っていただいて、けっこうです」
 私は、自分の部屋へ戻り、ベッドに倒れこんで眠った。ほとんど、倒れるのと同時に意識が闇に落ち、眠りに入るまでの間隙には、何の音楽もない。そんな眠りに会ったのは初めてかもしれなかった。あれは眠りだったのだろうか? ベッドの上で目が開くと、自動的に上体が起き上がり、窓の外の青い夜空と銀色の三日月が見える。私の瞳は精巧な義眼のように濃い海の青、ロボットのように回れ右して部屋を出るとそこは、見知らぬ廊下だ。ホラー映画の洋館のように、等間隔のライトに照らされている、赤いじゅうたん。暗く狭い廊下の先に、幽霊のように、灰色のパジャマの少年が立っていた。こっちを向いている顔は、濃い影に覆われている。影の方が本体なのかもしれない。
「こないだ 熊に会った」と、まったく平坦な声で少年は言った。「とても でかい熊
 ぼくたちは 見つめあった」
少年が、「喋っている」のではないことに私は気づいた。その、完全な平坦さは……ある種の、うた。詩(うた)を、歌っている。
「熊が言った『きみ 銃を持ってないみたいだけど どうして逃げないの』
 ぼくは逃げ出した
でも、すぐ後ろにあの熊はいた
ぼくは食べられた おしまい」
「……それで、きみは幽霊になったの?」という私の声が、前方へ響いた。その声が消えると、かすかなざわめきのような音が、さっきからこの廊下には鳴っていたことがわかった。
「ぼくは 幽霊になった」
「きみは、その熊のことを憎んでいる?」
「ぼくは その熊のことを
 …………」
「憎んではいない、の」
「すてられた 赤い箱 みんなに笑われる できそこないの 赤い箱
 教会で 裸に灯油をかけられる
 怖いのは にんげんの笑顔
 死んだにんげんだけが よいにんげん
 静かに 灰になる
 口づけした ピンクの花を 灰の上へ放り 足で灰をかけて埋める
 さようなら」
「……それで、きみはいま、どこに立っている」
「黄色い荒野
 雲が切れて太陽が見えた 白い空
 あの黄金色の鳥の 名前を教えてくれる人 もう隣にいない」
「きみは、世界が憎かった? 大切な人、一人だけと、二人きりになれたらと思っていた?
 けれどそんな人、初めからいなかった……」
 ふいに少年の顔の影が退き、強い目の光が私の頭を丸ごと射抜いた。少年の瞳は、黄緑色をしていた。眩しすぎる白い光に、私は腕で目を覆い、下ろすと、暗い自分の部屋のベッドで、うつ伏せになっていた。しかし、あの光の熱がまだ体の中に、残っていた。


 目を覚ました。教室。黒板の前に教師が立ち、左手に教科書を、右手に白いチョークを持っている。机に伏せて寝ていた自分は、制服を着た女子生徒。前の授業は水泳だった。まだ頭と体に、心地よい疲労が残っている。他にも寝ている生徒がたくさんいて、それぞれの夢を見ている。
 どんな夢を見ているのだろう?
 …………
 何の想像も浮かんでこなかった。おそらく先ほどまで見ていたはずの、自分の夢について考えてみても、何もない灰色の壁しかそこにはなかった。夢。自分は生まれてから今まで、どんな夢を見たことがあった? 授業が終わるまで考え続けても、一つも思い出せなかった。
 クラスメイトに訊いても、誰も答えられなかった。「そういえば……」「夢」「起きたら汗びっしょりになってたのは、きっと夢のせいだよね」「夢の中で何があったんだろう。何をされていたんだろう」
 いくつかの机をくっつけて話し合っていた、そのとき、廊下を白い少年が歩いていくのが見えた。白い、というのは、着ているTシャツもズボンも靴も、すべて真っ白だったのだ。白という色を越えて、まぶしささえ感じさせる純度。もちろんそれはその学校の、灰色の制服とは似ても似つかなかった。
 女子生徒は椅子を弾き飛ばすようにして立ち上がり、教室を出、少年の足音を追った。廊下、中庭、体育館、どこにも誰もおらず、少年には追いつけない。足音すら消えて完全に見失ったと思うと、視界の隅で光る白い影がちらつき、軽やかな足音が響いて、それを合図に追跡が再開される。……何度も何度も、この一連が繰り返された。
 何十分、何時間、彼女はそうして歩き続けた。歩き慣れている学校の中で、迷子になっているかのように、同じ場所を何度も通った。とてもいい天気で、窓があるところには、光が差している。その分、光の当たっていないところにある影を、強く意識させられた。人は、自分以外、やっぱり誰も、どこにもいない、と思っていたら、最初に自分がいた教室に、何かがいた。四つの机をくっつけて一つにして取り囲み、座っている、数人、いや数体の人型。それは黒い粘土で作られているように見えたけれど、粘土と違って、皺やひび、凹凸や継ぎ目といったものがまったくなく、完全な球体の表面のように、なめらかだった。その黒い人型たちは、のっぺらぼうの顔を突き合わせて、身振り手振りをまじえ、音もなく喋り、笑っている。自分の耳には聞こえないだけかもしれないな、と彼女は思った。でも、その黒い人型のうちのどれかは、彼女かもしれなかった。だったら自分は、仲間はずれにはされていない。またどこかで足音が聞こえた。彼女はその方向を向くと、再び歩きだした。
 校内には、行く先、行く先、黒い人型たちがいて、みな活き活きと、楽しそうに、無音で活動していた。悲しそうなもの、辛そうなもの、寂しそうなもの、苦しんでいるものは、一つもなかった。中庭では、身長に差のある二つの人型が、肩を組んで足をそろえて上げ、踊っていた。彼女にはそれが、不良といじめられっ子の二人をかたどったものであることがわかった。彼女の記憶の中では、いじめられっ子はいつも校舎の陰に呼び出され、不良へ財産を差し出し、集まってきた不良の仲間に羽交い絞めにされ、ズボンを脱がされ、白いパンツまで脱がされて、さらけ出された股間へ、不良が小便をかけていた。そんな二人が、いや、今や二人ではなく、両脇にどんどん他の人型も加わって、肩を組み、一列になって足を上げて踊る……そんな、夢のような、色とりどりの紙吹雪が降り注ぐ祝祭のような光景が、そこら中で繰り広げられている。それを見ながら、圧倒的な多幸感の光でかき消されそうになっている意識の片隅の、小さな陰の中で、これはこの世の終わりの光景ではないだろうか、と考えた、瞬間、急に照明が落とされたように、光は消え、彼女は暗い場所に一人で立っていた。
 彼女はそこを、知っている気がした。暗く、乾いて、無機質で、埋めるもののないがらんどうが、どこまでも広がっている。天井を支える大きな柱たちが等間隔に並び、その先は闇に消えている、ここは地下。
「よく思い出したね」と足下で何かがしゃべった。見下ろすと、左足のすぐそばに水槽があって、その中に何か、ぶよぶよとした黒い塊があった。それはなぜか一瞬、赤子のように見えた。
「ここはどこ?」とそれが尋ねる。
「ここは」と彼女は言う。「夢? ……それとも、さっきの光が夢?」
「どっちだと思う? どっちを信じたい?」
「その二つは、別の質問じゃないの?」
「そうかもしれないが、だからといって、どうだというんだろう」
 そうかもしれないが、だからといって、どうだというんだろう。
 それは彼女の耳に、意味を持つ言葉ではなく、自分には理解できない仕組みで何かを引き起こす、呪文のような音として響いた。
「だけど、とにかく、おめでとう。きみは、ようやくたどりついたんだ。ここが、きみにとっては、ゴール。ぼくにとっては、はじまりの場所。これからここを出て行ける、ぼくのことがうらやましいかい? しかし、だとしたら、きみはわかっていない。わかるかな? ここは、これからもぼくを、ずっと追いかけてくる。勝手に背中におぶさってくる、妖怪のように……ぼくが銃を持っていないことを知った、森のくまのように……影になって、ぼくがある限り、ずっと。それはいつでも、機会さえあればぼくを食って、入れ替わってやろうと企んでいる影なんだ。ねえ、きみにはそれが、どんな気持ちか、わかるかな? ここへくるまで、光ある場所をたくさん見てきて、あとは満足に包まれて、この温い泥のような薄暗い場所で眠るのを待つだけのきみに……どんな光の下を歩いていても、常に影に怯えて、吐き気とたたかいながら歩いていかないといけない、ぼくの気持ちが」
「影と、友達になったらいいじゃん。それか、あなたも影に、なっちゃえば」
「…………」
 彼女は、水槽の前に膝をつき、水槽の中の黒くてぶよぶよしたものを撫でた。
 少しの間の後、それは、音もなく咆哮した。咆哮は一つの波紋となり、世界中に伝わった。全部、真っ暗闇になり、今やもう、世界中が地下室だった。
「これで良かったの?」と彼女が訊いた。返事はなかった。それはもうそこにいないのかもしれなかった。周りの真っ暗闇と、一つになったのかも。彼女は自分の手が何に触れているのか、何にも触れていないのか、わからなくなっていた。言うまでもなく、彼女の手も、真っ黒に変わっていたからだ。


 あの子供が死んだことを、私は聞かされた。
「死んだ? ということは……どうなったのですか? 夢から解放されたのか、それとも――」
「わかりません。死人は喋りませんから」
 そう答えた職員の顔を、私はまじまじと見つめた。ふざけているのか? と思ったのだが、見る限りその様子はなかった。笑いをこらえている風でもない。
「では、二人目の子供を見ていただきます」
「は? ちょっと待ってください」
 職員は、私に背を向けて歩きだす。どことも知れない廊下、職員に置いていかれてしまっては、なす術がない。私はついていくしかなかった。
 職員は、キビキビ歩きながら、話を始める。それが、これから私が会うことになる、二人目の子供のプロフィールを語っているのだということはわかる。しかし、その情報が脳に蓄積されていくのを感じながら私が考えているのは、あの死んだ子供のこと――本当に、死んだのだろうか? 目蓋の裏に焼きついている、あの子供の、大きく開いた瞳の色、光、体の周りに発散されている生気、私がこれまで目にしてきた、どんな生きた人間よりも生きていた、あの子供が、
「本当に死んだのですか?」
 職員が、足を止めた。それから、私に背を向けたまま、
「線香花火の中には、落ちる間際に、ひときわ大きな花を咲かせるものがあります」
 それだけ言うと、歩きだした。
 私は、もう何も言わなかったけれど、頭の中では、ずっと死んだ子供のことを考えていた。そこに音楽はなかった。鳴らそうと思っても、鳴らすべき音を見つけ出せない。そう思いながら、あの楽器だらけの部屋で、自分の右手が、何かの楽器を選び、持ち上げるのを見ていた。
 そして気づけば、真っ暗な場所にいた。真っ暗で、どこに光源があるかもわからないのに、椅子に座っている私の姿と、ガラスを挟んだ向こうにいる子供の姿は、くっきりと青白く、浮かんで見えた。
 もちろん、向こうにいるのは、あの死んだ子供ではなかった。今度は女の子で、水槽に入っていないし、濡れてもいない。二つ結びの髪に赤いリボンをつけ、フリルの塊のような、ピンクのドレスを着ている。移動式のベッドの上で、枕に腰と背中を預けて座り、胸に抱いている白い熊のぬいぐるみに、口を埋めている。目は閉じている。熊の首には、青いリボンが巻かれてあった。
 私は、女の子を見ていた。喋る気配が感じられない。眠っているのか。
 いっそのこと、そのまま、永遠に眠っていてほしいと思った。
 実際に、永遠に近い時間が流れたような気がする。
 私は、皺だらけの、白髪の、背中の曲がった老人になっていた。
 頭の中に、ふっと蝋燭の火が灯った。
 昨日夢で会った少年のことを、思い出していた。
 私の口が開き、こう言った。
「お友達がいないの? それとも、その熊さんが、お友達なのかしら? その熊さんが、動き出して、あなたに話しかけてくれたら、あなたは嬉しい?」
 女の子は、反応しない。
 私は、膝の上に楽器をかまえた。いちごジャムの色をした、アコーディオン。それを、弾きはじめた。
 その曲は、私の作ったものではなかった。どこか、異国の街の路上で弾かれているのを、遠い昔に聞き覚えたもの。その街は、空想の中の街だったかもしれないけれど、だからといってその曲は、私が作った曲ということにはならない。
 女の子の胸元から、熊が飛び出し、地面に立った。熊は女の子の方へ向き直ると、舞踏会の王子様のように胸の前で腕を曲げ、小粋に礼をしてみせた。
 熊に隠されていた女の子の口が、あらわになっていた。唇は死人のそれよりも白い。花びらのように。
 熊は、私の曲にのって踊った。私が操っているのではなく、熊じしんが踊っているのだ。誰かの作った曲が、それを知っている熊と私を結びつけ、同じ舞台に立たせている。といっても、私は後ろで、ライトの当たらないところにいて、女の子が見ているのは、スポットライトも追うのにとまどうほど、縦横無尽に飛び跳ね、汗の粒を散らしている、熊の姿だけだったけれど。それでいい。私は女の子にとって、ただの音だった。
 気づくと暗闇はなくなり、椅子の上でアコーディオンを膝にのせた私が背中を曲げ、ぜえぜえと荒い息をしていた。私は、もう老人ではなく、三十八歳の女に戻っていて、横には職員が立ち、ガラスの向こうを見ていた。
「今日はこれで、終わりにしますか?」出し抜けに職員が言った。
「はい」私は、前方の女の子を見ながらうなずいた。
 女の子は、相変わらず目を閉じていた。けれど、熊のぬいぐるみは口から離していた。女の子の唇は、あの暗闇の中で見たのと違って、桜色、つやつやと輝いていた。
 私は部屋に戻ると、電気もつけずベッドに倒れこみ、泥のように眠った。
 もう夢は見なかった。
 それから私は毎日、女の子のところへ行って演奏をした。弾いている間はやっぱりあの暗闇の中にいた。私はこれまで、楽器を弾いていて疲れを感じたことはなかったが、その暗闇の中での演奏には、ひどく体力を削られた。息は荒くなり、汗をかく。ずっと続けていると、窒息しそうになって、すんでのところで職員に止められた。ときどき休憩を挟みながら弾くようになった。
 そうして、何日か、何週間か、同じような日が過ぎた。私は弾き、熊は踊り、女の子はじっとしていた。外側から見れば、それは同じことの繰り返しだったし、私から見ても、前進、良い方向への変化を感じとることはできなかった。そもそも、そうした確信を持ったことが、今まで私には一度もなかった。それなのに音楽をつくりつづけてきたなんて、おかしなことだ。そう人は言うだろう。良い方へ進んでいると思えていないのに、なぜつくるのか。意味があるのか。わからない。でもそれが私のやり方だった。
 そして、ある時、演奏していた私の指が止まった。ゆっくり視線を上げると、ベッドの上で、女の子は目を開いて、こっちを見ていた。その目は、あの死んだ子供ほど大きく開かれていなかったし、激しく光を放ってもいなかった。けれど、燃えていた。神秘的な、薄紫色の炎。王のように、審判者のように、見定める目をしていて、体からはゆらゆらと、気が立ちのぼっているのがわかった。
 硬直している私へ、門が開かれるように彼女の口が開いた。真っ黒な口の中から、一直線に言葉が放たれた。

 わたしは嘘をつきました
 嘘をつくのはよくないことだと 神父さまも先生も おっしゃっていたので
 わたしはきっと 罪人です
 でも 十字架にかけられて 石を投げられても
 わたしは この嘘をやめません
 わたしは あの子に嘘をついています
 あの子は 暗い穴の底に座って いつも何かをいじっています
 他のみんなもわたしも 穴の上で遊んでいて 誰もあの子に声をかけない
 それでわたしは 穴をのぞきこみ あの子の名前を呼ぼうとしましたが 誰も名前を知りません
 出席簿にも書いてない
 だからわたしは こう言いました
 ねえ この手につかまって 引っぱり上げてあげるから そしたらみんなと一緒に遊べるよ
 わたしは何度も呼びかけました あの子は耳が聞こえないのでしょうか
 ちがうよ と わたしの肩に手を置いて 友達が言いました あいつはぼくらが嫌いだから 出てこないんだよ
 そうなの? 嫌われるようなことをしたの?
 ……してない 嫌われてはいないのかな じゃあ、無関心なんだよ
 でも 一人だったら退屈じゃない?
 ぼくらと遊ぶより面白いことがあって 夢中なんだよ
 そんなものがあるとは わたしには信じられませんでした それは、もしかして いつもあの子がいじっている何かなのじゃないか?
 わたしは とても気になって ついにある日 ある晩 みんなが遊び疲れて草の上で寝ているころに 穴の中へ下りてゆきました そして ゆっくり あの子の丸まった背中へ近づいてゆき……何をしているのか、見ようとしました するとあの子は、くるっとわたしに背中を向けます 何度のぞこうとしても、同じでした あの子はぜったいに 何をしているのか 見せてくれなかったのです
 それならば……と思い、わたしは家から くまさんを連れてきました わたしにはたくさんの友達がいたけれど いちばんの友達はずっと くまさんでした お父さんもお母さんも 仕事でいない夜 怖い夢で目が覚めたときも くまさんを抱きしめると安心できました くまさんには 安心させてくれる ふしぎな力がある だから あの子もくまさんになら 心を開いてくれると思ったのです
 わたしは くまさんを抱いて あの子の背中へ近づきました そして くまさんの手を持ち上げ あの子の心臓がある辺りに 触れました 触れられました
 くまさんは あの子の隣に座ることをゆるされました でも わたしはダメでした しかたがないので あの子と逆を向いて くまさんの横に座りました あの子が くまさんの右手を握り わたしが左手を握り……くまさんの目には あの子が何をしているか 見えているはずです わたしが目を閉じると くまさんが見ている「それ」が 流れこんでくる気がしました 「それ」は時によって 姿を変えるようでした だから わたしは目を離すことができません
 そうして どのくらいの間 穴の中にいたでしょうか ふいに声がきこえました
 おまえは ぼくと同じなのか?
 わたしは 答えました
 うん 一緒だよ
 これが わたしの最初で最後の 今なお続いている、わたしが燃やされ 灰になっても続く、一度きりの嘘です

 女の子は右の通りそっくりそのまま語ったわけではない。どの時点からか、正確にはわからないが、私は演奏を始めていた。女の子の言葉の間隙を満たす、黒い水のように音楽を。言葉の断片が、私の体内に入りこみ、私の体はそれを消化して、別の形へ変え、吐き出す。形は変わっても、それは連続する同じ一つのものだ。氷が溶けて水になり、中に閉じこめられていた虫の死骸があらわになるように、私の音楽は機能していた。
 そして今、演奏は終わり、私は膝の上のアコーディオンに額をのせて、荒い息をしていた。鍵盤も、私の指も、汗まみれだった。
 靴音がして、声が続いた。
「安らかな顔をしていますね、彼女。あなたの演奏が、心地よかったのかもしれません」
 隣に職員が立っていた。
 顔を上げると、たしかに、何事もなかったかのように女の子は眠っていた。本当に何もなかったのかもしれない。私はまた、夢の中にいたのではないか。
 女の子の表情が「安らかな顔」であるのかも、私にはよくわからなかった。ただ、職員がそう言うのであれば、それを信じたかった。夢であるならば、せめて良い夢であってほしい。以前の私はそんなことを願わなかったが、そのときの私は、自然にそう思っていた。

 次の日、同じ場所へ行くと、ガラスの向こうのベッドには、熊のぬいぐるみだけが座って、輝く瞳で私を見ていた。職員がやってきて、ガラスの向こうを見ながら言った。
「彼女は昨日、あの後亡くなりました。ただ、亡くなる前に目を覚まして、ご両親を呼び、最後に会話をしていました。ご両親が彼女と会話をするのは、三年ぶりだったそうです。涙を流すご両親に、『ごめんね』と言って彼女は微笑み、目を閉じると、そのまま心臓がゆっくりと止まりました。
 あの熊のぬいぐるみは、彼女の遺言に従って残しています。
『あの子にくまさんを渡してあげて』と、彼女は言っていました」


ぼくたちのいるこの校舎の中は、夢の中なのだと誰かが言った。窓の外の町はもう、真っ黒な「あれ」に食い尽くされて、黒い海になっている。波打って見えるのは、巨大な「あれ」がうごめく姿だ。ときどき「あれ」の赤く発光する目玉がちらつく。「あれ」は黒い海から出てきては溶けることを繰り返しているので、何体いるのかわからない。瞬間瞬間に生まれては消えているのだとすれば、一体も存在しないとも言えるし、無限に存在するとも言える。
「あれ」は運動場へは乗り込んでこない。そこは、夢の領域なのかもしれない。だけど、おかしな話だ。元々は、ぼくたちのいる場所が現実で、「あれ」が、悪い夢のようなものではなかったか。全部が夢だとしたら、現実はどこへ行ってしまったんだろう?
 尋ねる相手はいない。先生はとっくの昔にいなくなっているし、ここが夢の中だと言い出した、うわさを流した誰かも、おそらくはそのうわさから生まれた「あれ」に、のみこまれてしまった。
 その誰かを責めることは、ぼくたちにはできないだろう。だって、うわさは、ぼくたち全員の存在によって、力を増したのだから。うわさを言葉にして、口に出して広めた者はもちろん、口に出していない者も、頭の中で空想をした。その空想が、恐ろしい結末へたどり着くことがわかってからは、なるべく考えまいとしたけれど、そう意識すればするほど、頭の隅には、「あれ」の黒い影が忍び寄るのだ。
 どうあがいても、ぼくたちは「あれ」を語ることから逃れられなかった。
「人間は物語の発生装置なのだ」と、また別の誰かが言った。もう誰だか思い出せない人、「誰か」になってしまった人が。
 その人はきっと英雄で、ぼくたちに戦い方を教えてくれた。
「どの道、物語を生んでしまうのなら、その流れに乗ってしまえ。ただし、私たちが語るのは『あれ』ではない。良き夢を、自分で選び取って見るのだ!」
 そう言うと、その人はベッドに潜って眠ってしまった。寝顔は笑っている。たぶん良い夢を見ているんだろう。それは春、道端で風に揺れるたんぽぽを見つけた夢だった。
 町のどこかでたんぽぽが咲き、その周りだけ「あれ」が退いた。
 みんな真似して、教室の床に布団を敷いて眠った。怖い夢を見ると、「あれ」につけこまれて、眠ったままのみこまれてしまう。でも、良い夢を見られたら、「あれ」は入ってこられない。
 来る日も来る日も、眠っては夢を見た。ぼくたちは生まれてから今まで、こんなに幸せな時間を味わったことはない気がした。
 ぼくたちの見た良き夢は、町のあちこちで咲いて、「あれ」を怯えさせた。ぼくたちは窓際で双眼鏡を奪い合い、手を叩いて笑った。大きな夢、小さな夢、いろんな夢が町中にあふれている。元は別々の夢の中にいた男女が偶然、運命の出逢いを果たしたかと思えば、空では北風と太陽がぶつかりあい、下へ向かって竜巻を起こし、地上の男女を吸い上げ、回る竜巻の中で男女は手を取ったり、離れたりと円舞を踊る。竜巻の中では、羊も棒立ちのまま飛んでいる。外側では「あれ」が竜巻へ手を伸ばしては弾かれ、腕をちぎり飛ばされ、悲しげなうめき声を上げている。
 そんなはちゃめちゃを見ているのは楽しかった。
 けれど、楽しさはいつか、疲れへと変わってしまうものだ。
 ある日、体育館で、バスケのユニフォームを着た男子が床に座り、ボールをもてあそんでいた。そいつは小柄でやせっぽちだったけれど、誰よりもバスケが好きで、他の部員が全員消えてしまっても、一人でずっとドリブルやシュートをしていた。起きている間はもちろん、寝ている間も、汗を散らしながら走り回って、目を閉じたまま口元に笑みを浮かべ、華麗にシュートを決めていた。
 そんなやつが、ボールを持っているのに動かず、ただ座っている……
「どうしたんだよ」とぼくは、尋ねたくなかったけれど尋ねた。
「いやあ、さすがにさ……もう体が限界なんだ。おれ、バスケに殺されちまうよ。もう、普通に眠りたい。今日だけでもさ」
「今日って、いつだよ」ぼくたちはとっくの昔に、時間の概念を見失っていた。「わかってるだろ。おまえ、ぐっすり夢も見ずに眠ったら、そこは暗闇だよ。『あれ』の腹の中なんだぜ」
「……それでも、永遠はつらいよ。本当はわかってる。おれの体は、いくら疲れても、完全に壊れることはないって。ずっと続くんだ、終わらなきゃ。バスケじゃなきゃ、まだ続けられたのかもな。絵描くとか、曲作るとか。でも、もうおれには、バスケしかないから。それだけは、最後まで、貫かせてくれよ」
 そして、そいつはボールに顔をつけると、そのまま石像のように固まって、眠ってしまった。
 それから、何が起こったか……なあ、テディ・フォレスト、おまえも見ていたよな? 机の上に座って。あの教室で、ぼくと、陰気な男子が話しているところをさ。
「今まで、ボクのようなウジ虫と仲良くしてくれて、ありがとう」とそいつは言った。
「なんだよ。ぼくは、ウジ虫と仲良くするような人間だったのか? それはぼくに失礼だろ」
「ああ。だから、もうボクは、きみに関わるのをやめようと思う。迷惑をかけたくないからさ」
「ウジ虫野郎。迷惑ならもう、散々かけられてるんだよ。ぼくのために身を引くみたいな言い方をするな、卑怯だぞ。本当の理由を言え」
「……やっぱり、無理なんだ。ボクみたいなやつが、良い夢を見続けるなんてさ。そんな資格ないって思うし、単純に、疲れるんだ。自分に嘘をつき続けるのは、誰だって苦しい。いつか限界がくる。だって、『あれ』はずっと窓の向こうに見えているじゃないか? それなのに、心の底からきれいで、曇りのない希望をもって、良い夢を見続けるなんてさ……そんなの、おかしいじゃないか? もしそんなやつがいるとすれば、そいつは大嘘つきだよ。きっと正しいのは、『あれ』の方なんだ。最後までウジ虫のままで、ごめん。でも、最後くらい、ボクは自分で納得して終わりたいんだ……」
 何も言い返せずにいるぼくを残して、そいつは教室を去り、戻ってくることはなかった。
 窓の向こうを見ると、空は夕焼けで……その下の町では、良い夢に駆逐されていたはずの「あれ」の黒い姿が、再び海のようにうごめいていた。
 ぼくは校舎中を歩き回ったけれど、誰もいなかった。いや、人の体は、あちこちで見つけたけれど、みんな死んだように眠っていた。プールサイドで、花壇のそばで、長机の上で、運動場の真ん中で……
 下駄箱で、手紙を見つけた。開くと、こんなことが書いてあった。

 実は私、ずっとあなたのことが好きでした。結局最後まで、気持ちは伝えられなかったけれど、だからこそ、良い夢だけを、見させてもらいました。私はもう、起きるのが怖くてたまりません。いつか「あれ」が、あなたを食べてしまう、そんなところを見たくないのです。だから私は、私の心地良い夢の中にずっと、閉じこもることにしました。ここにいるあなたの写し身と、手をつないで、花畑でいっしょに、冠をつくって……私もそのうち、夢ごと「あれ」に食べられてしまうのかもしれませんが、この夢の中ならきっと、何も気づかず幸せなまま、終わることができると思います。勝手でごめんなさい。この手紙を読んでいる人、あなたは自分が「あなた」なのかどうかもわからなければ、私が誰なのかもわからない。だから、この手紙は誰のためにもならない……馬鹿な女の、感傷です。読んでくださって、ありがとう。あとは焼却炉へ放りこんで、煙にして空へ、送ってください。

 手紙を燃やして教室へ戻ると、いよいよ残っているのは、ぼくとテディ・フォレスト、おまえだけだった。
 おまえはぼくが四歳のとき、うちへやってきた。プレゼントの箱を開けて、おまえの顔を一目見た瞬間、ぼくにはおまえの青い瞳が、果てない異国のおとぎ話の夢を見ていることがわかった。眠るどころか、まばたきをすることさえないおまえの瞳。他の全員が夢見ることをあきらめてしまっても、テディ・フォレスト、おまえだけはぼくを裏切らない。
 そう思っていた。
「僕は行かなくちゃならないみたいだ」とおまえは言った。
「なんだって?」
「僕は、君のこと、一番大切な友達だと思ってる」
「ぼくだって、そうだよ」
「一番の友達だからこそ、言っておかなきゃならないことがあるんだ。今まで、隠していたけれど、実は僕、本当は人間の子供を食べるのが大好きな、悪い熊だったんだ」
「それは、熊だったら自然なことだ。ぼくは責めない」
「ありがとう。でも、ダメなんだ。僕は、生きるために食べるわけでも、味が好きで食べるわけでもなく、子供が苦痛に泣き叫んでいるのを見て、聞いて、食べるのが好きなんだ」
「……でも、ぼくを食べようとはしなかった」
「それは、君が大切な友達だから、我慢していたんだ。本当は、食べたくてしかたがなかった。夜、君の胸に抱かれて、君の寝顔を見ていると、よだれがあふれて、気が狂いそうになって、こっそり家を抜け出して、近所の子供を食べて回った。君が小四のとき、仲良しだったHくんがいなくなったよね? あれは、僕が食べたんだ。本当にごめんね。森の木の下でスイカみたいに割れたHくんの肉、木漏れ日に輝いていて、噛みつくと透き通った汁があふれ出して、とっても美味しかった。生きているって感じたよ。僕が生きているって感じられるのは、そのときだけだった」
「……」
「でも、これでわかってもらえたよね。僕は、君のそばにいるべきじゃないってこと。僕にはもっと他に、ふさわしい場所があるんだ」
 さっきから、気づいていた。テディ・フォレストの背後、窓の向こうで、空の夕焼けが黒く染まっていっていることに。それは、普通に考えると、夕方から夜へ移っているのだということになるだろう。けれど、もうこの世界に、「普通」はない。よく見れば、わかった。空に見えるあれは、夜の闇ではない。「あれ」の黒が、ついに空さえも食い尽くそうとしているのだ。
「あの子が、僕を呼んでいる」とテディ・フォレストが言った。
「あれ」はどんどん勢いを増し、夕日もほとんど見えなくなった。これまで入ってくることのなかった運動場の中へ、入道雲のように膨らんだ「あれ」が、なだれこんできた。あっという間にぼくたちの方へ近づいてきて、窓にぶつかって、わだかまった。そのもやもやの中に、ぼくは、人の輪郭のようなものをみとめた。小学生くらいの、少年のようだった。目も鼻もない顔の中で、口だけが開き、ニタアと笑いかけてきた。
「あんなやつのところへ行くのか」とぼくは言った。
「行きたくはないさ。本当は、ずっと君のそばにいたい。だけど、行くべきなんだ。わかってもらえるかな」
「わからない。ぼくは、子供だから」
「それは、わかっている人の言葉だよ」おまえの口は動かないけれど、ほほえんだのが、ぼくにはわかった。「今まで、ありがとう。君といられた時間は僕にとって、最高の夢だった」
「夢なんて言うなよ」
「あはは。そうだね」
 窓ガラスが割れ、無数の黒い腕がテディ・フォレストをつかまえて、「あれ」の中へのみこんだ。
 あまりにもあっけない終わり。黙って見ていると、「あれ」の中の少年が、笑ったままぼくに手を振り、そのまま「あれ」は、遠ざかっていった。
 運動場と、校舎と、ぼくだけが残った。
 いっそのこと、ぼくも食べてほしかったけれど、向こうにそのつもりはないようだ。
 ぼくは、保健室へ行って、真っ白なベッドに潜りこんだ。保健室の窓は、半分以上がすりガラスになっていて、上の方の少しだけ、ふつうのガラスで、外が見えた。そこに映っているのは、昔の宗教画に描かれたような、黄金と橙を混ぜたような色の空だった。
 神々のたそがれの色だ、とぼくは思った。心地よい光が、頭を包む。きっと良い夢を見られるだろう。眠りに落ちる前に、少しだけ考えた。あの、真っ黒な少年のことを。ぼくからおまえを奪い去った、あの少年を、しかしぼくは恨む気にはならなかった。なんとなく、わかってしまったからだ。あの少年は、これまで一度も良い夢を見たことのない、かわいそうなやつなんだってことが。
 夢の中には、やっぱりおまえがいた。もう、ぼくの手を離れ、きっとぼくの知っていた姿形――あの、美しい青の瞳も失って、名前もなくなったおまえが。だけど、夢の中だからだろうか、やがてぼくは、おまえの名前を思い出すことができたんだ。
 テディ・フォレスト。
 名前を呼ぶと、モザイクのかかった雲のようにぼやけて認識不可能になっていたおまえの姿が、定まった。
 白いワンピースを着た、女の子。
 それは、ぼくが知っているはずのおまえの姿とは、ずいぶん違っている気がする。姿だけじゃない、声も、しゃべり方も、性格も、記憶も……それでも、ぼくにはそれがおまえだって、確信があった。だから手をつないで、二人で歌いながら、青空の下、さわやかな風が吹き抜ける野原を、スキップしていった。


 夜、私は眠れずに、暗い施設内を徘徊していた。同じような廊下を、階段を、いくつ通ったかわからない。きっと、中にはまったく同じものもあっただろう。そもそも、同じとは何だろうか。
 そのまま、朝まで歩き続けるのかと思っていたが、ある廊下を歩いているとき、窓の向こうの青い空に浮かぶ月が、私を見ていて、その線というよりは面のような視線の力で、私の体を押して、横を向かせた。そこにはドアがあり、私の手はドアノブを握った。そこまでくるともう、ドアを開けるしかなかった。
 書斎のような部屋だった。両側の壁を覆う、木製の本棚。そして中央に机。
「いらっしゃい」
 施設長が、机の上に両肘をついて、顔の前で手を組み、私を見ていた。
「こんばんは」
「よくここがわかったね」
「わかって来たわけではないです」
「それはわかっている。そういうやり方でしか、ここには入って来られないからね」
 施設長は、マグカップを持ち上げ、口につけて、また置いた。「来るべきだから、来れたんだよ。まあ、そこに座りなさい」
 促されて、私は深い緑のシートの椅子に座った。
「どうかな、調子は」
「ご存知なのでは」
「君は自分で自分のしたことを、どう思っている?」
「……わかりませんが」
「が?」
「……私が、殺したのではないでしょうか? あの子たちを」
「眠ったんだよ。君が、そうさせたわけでも、本人が望んだわけでもなく、自然に訪れた眠りだ」
「……昔、誰かが、子守唄を歌ってくれていました。親ではなかったかもしれない」
「神様とか」
「神様がわざわざ私の相手をしてくれるとは、思えませんが」
「そうだね。神様は誰の相手もしない。だから誰でも救われる可能性があるんだ。太陽の光は地上のどこへ行っても、強弱の差はあれ、平等に降り注いでいる。それと同じことさ」
「神様の音楽は、平等に、あふれている」
「そうだ」
「あの唄は、黄金の光だった気がします。すぐ近くに浮かんでいるのに、手を伸ばしてもつかめない」
「神様を手に入れようだなんて、見かけによらず不遜だね」
「物心つかない頃の話ですから、不遜なんて言葉はないですよ」
「何の言葉もなかったかい」
「はい。初めに言葉ありきというのは、嘘だと思います。私の周りには、あの唄があった。起きている私を、唄が眠りへ、夢へ誘い、夢の中の私を、唄が再び、現実へ……境界は溶けていました。夢と現実のあわいを、唄が満たして、結局、どちらが先に始まって、最後になったのか、わからない。ここは、夢であってもおかしくない。
 でも、これは、私だけが感じていることではないのでしょうね」
「ああ」
「あの子供たち全員が、同じことを感じている。かもしれない」
「そうだね」
「私には、やっぱりわかりません。自分のしていることが、何なのか。善いことなのか、悪いことなのかも。けれど、私がそうすることを、要請されているのは感じます。私の望みとは関係なく、そうあるべきことの中に、私はいる。こんな感覚がするのは、初めてなんです。他人や社会とは別の何かから、役割を与えられていると感じるのは」
 私は施設長の返事を待たず、椅子から立ち上がり、礼をすると、退室した。施設長は、笑顔で手を振り、私を見送った。
 廊下に出ると職員が待っていた。目が合い、私がうなずくと、職員は歩きだした。
 私は、楽器ではなく、機材を選んだ。ただの四角い黒い箱のような機材で、使い方はもちろん、どんな音を作れるのかさえわからなかったが、ほとんど何も考えずそれにした。
 連れて行かれた先は、いつもの、ガラスに仕切られた暗い場所ではなく、明るく清潔な、青白い病室だった。窓の外には海の青と木々の緑が見えるが、まるで現実味がない。
 部屋の中央にはベッドがあり、その上には一人の少年が座って、焦点の定まらない目で私を見ている。焦点が定まっていないのになぜ私を見ているとわかるのか、不思議だ。その目は同時に夢を見ている。同時に異なる二つのものを見る目。それは原理的にありえない。ありえないということは、神の領域にあるものだ。
「彼は自ら水槽を抜け出した、ただ一人の子供です」と横で職員が言った。「産まれてしばらく、コインロッカーの中にいました。その暗闇で、ずっと夢を見ていた。母親の温もりではなく、夢で自分をくるんでいたのです。正直に言うと、私は、彼が他者の手に見つかり、取り出され、この現実で生き延びたことが、良いことだったのかどうか、わかりません。彼には、気をつけてください」
「危険なのですか?」
「危険、という域ではない気がします」
「しかし、触れないわけにはいかないんですね」
「ええ、私たちは、人間ですから」
 私はその言葉に、少し驚いた。これまで職員は、職員という立場からしか、ものを言わなかったからだ。
「胚くん」と、職員が少年に向かって言う。「君の待ち望んでいたYさんが、来たよ」
「……ぼくは」少年が口を開いた。「あなたを知っている。あなたは?」
「必ずしも、答える必要はありません」と職員が私へ言う。「『自分に話しかけている』と相手に感じさせた上で、まったく別の『詩』の中へ引きずりこむのが、彼の常套手段です」
「しかし、ある程度はその『詩』に取り込まれないと、踏みこむこともできないのでしょう」
「……」
「私は」と私が少年へ向かって言う。「きみを知らない」
「それは 忘れているのだ
 あなたは ぼくを棄てる ぬいぐるみのように
 人間の子供など 本当はほしくなかった
 他人に命令され 社会に居場所を確保するための手段
 それが あなたにとっての 子供
 ぼくを抱いてあなたは 何を感じたか
 恐れか 異物感か 不可解か 気持ち悪いと思ったか
 その中のどれか一つに 微量でも 愛は紛れこんでいたか
 ならばその緑色のエキスをスポイトで吸い取り
 試験管へ落とそう
 分かりますか あなたの愛は緑色だということ」
 私は動悸のする胸をおさえて床に膝をついていた。寄ってくる職員を手で制して、音楽の機材をつかんだ。
「あなたのそれは愛ですか」
 中学生のとき、下駄箱を出たところで男子にラブレターを渡されたことを思い出した。雨が降ってきて世界は深海のように青黒くなり、手紙もふやけて破れてちりぢりになってしまった。
「愛でないなら あなたは何のために生きている
 せめてぼくのために 死んでくださいませんか
 あなたが死んだこと それ自体が ぼくの生きる糧になる
 ぼくに生きる価値がなくとも ぼくは生きたいと思っている
 あなたはどうですか
 生きる気がないなら 譲ってください」
 私は、ただ、機材を両手でがっしりとつかんで、その黒い箱の中に、何があるのか、見定めようとしていた。
 黄金の赤ん坊か。白い赤ん坊か。それは南の島にいる。ここはどこだ。少年の「詩」が、私を侵食している。
 やるべきことはわかっている。
 音楽をつくれ。
 それが、まちがっていようといまいと。


 ぼくは、ずっと眠っているようだ。ときどき、少しだけこうして目を覚ましたと思うときもあるけれど、それも夢の中のできごとかもしれない。
 現実で、眠りについているであろうぼくの体は、もうすっかりやせ細り、しわしわになり、髪も抜け、唇は色を失ってひび割れ……乾いた地面のようなその体に、蝶々がとまり、離れると、ついにぼろぼろと崩れて、白いベッドの上、日の光があふれている。
 じゃあぼくはもう、いないんだ。体がなくなれば、人間の、夢を見る機能も、きっと消えてしまうんだろう。
 だから、これがきっと、最後の夢になるよ、テディ・フォレスト。
 おまえは、ぼくの寝ているベッド際の窓の前に立って、明るい外を眺めている。
 おまえには、何が見えている? 体を動かせないぼくのために、教えてくれ。いったいぼくの夢の世界が、どんな光景をしているのか。
 それとも、おまえに見えているのは、真っ黒な少年の形をした、「あれ」なのだろうか。いくらそいつが手を振っても、ついていってはいけないよ。一緒に追いかけっこもかくれんぼもできないぼくといたって、おまえは退屈かもしれないけれど。
 そして、おまえは行ってしまう。開いた窓の桟の上に飛び乗って、最後にぼくを振り返る。消えゆく夢の中で、夢とともに消滅しようとしているぼく、それがどんな姿をしているのか、ぼくにはわからないが、おまえにはわかっている。
 窓の外へ行ったおまえが、どうしたのか、ぼくにはわからない。だから、目を閉じて、想像する。草原の中に立っている黒い少年のもとへ、白いおまえが走ってゆき、手をつなぐ。おまえは、少年におびき寄せられたのではなかった。自分の意思で、彼と、友達になりにいったのだ。だから、おまえは大丈夫だ。心配ない。ぼくの声が聞こえたのか、少年とともに向こうへ行こうとしていたおまえは立ち止まり、振り返る。少年に急かされても、しばらくそのまま見ているが、そこにはただ、光で白くかき消されそうな空間があるだけだ。やがて、前へ向き直り、その先の森の中へ消える。今度は、一度も振り返らずに。
 最後にもう一度だけ、おまえを抱いて眠りたかったな、と、消えていくぼくが思った。


 気づけば、少年は消え、ベッドは空になっていた。
 ベッドの向こうでは、窓が全開になり、日の光を反射する海と、空の青と、木々の緑が見えている。風でカーテンが、こちらへ向かってはためいている。
 それは、何かが終わり、始まりの地点に着いたことを示す光景だった。そこには、始めない自由も含まれている。
 私は、機材から手を離し、自分の腹をおさえた。
 黒い箱の中には、音楽が入っているはずだった。
 誰にも聴かれたことのない音楽が。

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