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旅に依存していた話

今は値上げしているかもしれないが、かつて大学近くの食堂ではカレーが250円で食べられた。なぜその値段を覚えているかというと、金欠のときそのカレーに何度か助けられているからだ。食費を切り詰めるとき、食堂のカレーは大いに役立った。現金がなく途方にくれていたとき、財布の底に残っていた食券を発見したときは大いに喜んだ。
大学生のとき、暇さえあれば旅に出ていた。手持ちが減り、生活費として確保しておくべき預金にも手を出した。バイト代が入るまで、食堂のカレーで空腹をしのいでいた。旅に行く頻度を減らし、出費を抑えるべきなのは明らかだった。

「旅行が趣味です」というと、多くの場合は前向きな感想が返ってくる。旅をして見識を広めるのはいいことだ。もちろんそれは正しいのだが、あくまでも適度に楽しめる場合の話だ。
私は20代前半のころ、旅に依存していた。アパートで一人、じっとしているときの孤独に耐えられなかった。資金が足りるか考える前にチケットや宿の予約をしていた。旅というより逃避に近かったと思う。
依存という表現は、酒やタバコ、ギャンブルなどに使われることが多い。確かにこれらの依存性は高い。センセーショナルな話題としても取り上げられる。ネットやニュースを見ていて「そんな人もいるのか、怖いな」と思う人もいただろう。
しかし、私にとって依存とはもっと身近に転がっているものだった。旅という一見前向きなコンテンツでも、バランスを間違えてしまえば立派な依存先になる。何事もバランスが大切で、旅への依存は決して望ましい状態ではなかった。
あのころのような旅を、今後も繰り返すつもりはない。250円のカレーは次第に飽きてきたし、金欠が続くと次第に心が荒む。貧乏エピソードには事欠かないが、決して戻りたくはない。それでも時々、当時を振り返っては楽しかったと感じている自分がいる。

今、「毒親育ちの恋愛事情」というZINEの原稿を書いている。旅へ依存した原因を全て家庭環境に求めるつもりはない。しかし、原因の一つに安心感を持ちにくい精神状態があったことは確かだ。
あのころの経験から、読者に何を伝えられるだろう。当時の自分に今ならどんな言葉をかけるだろう。毎日思い悩みながら、パソコンを前にして唸っている。

何気なく現在の学食を調べたら、カレーの値段が350円に上がっていた。それはそうだろうなと思いつつ、あのとき値段が上がっていたらと思うとヒヤリとする。1週間くらい素うどんしか食べられなかったかもしれない。

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