子どもが生まれた日の話

先日、誕生日を迎え、息子は無事4歳になった。大病せず4歳を迎えられたことは本当に嬉しい。これからも日々楽しく、元気に過ごしてくれることを願うばかりである。

息子が生まれて初めて、私は親の立場で子どもの誕生日を迎える心境を知った。ふと時計を見た時に「○時か。ちょうど○○してた頃だな」と思い出す一日になった。よく、「誕生日は親に感謝しましょう」と言われるが、私個人としては息子からの感謝は特別必要ないかなと思う。息子が生まれてきてくれてここまで育ってくれたこと、そしてその日を私も一緒に迎えられたことを、私が感謝する日なのである。

そんなわけで今日は出産の時の話でもしようかと思う。妊娠中は比較的順調だったのだが、出産は私が生死に関わる事態になる大変なものだった。


息子が生まれる前日の夜中、私は破水(と言ってもそこまで量は多くない)で目を覚ました。夫を起こして病院に行く。破水の少し後から陣痛も始まった。少量とはいえ破水しているので、病院に着いたら即入院である。

点滴をしながら出産の時を待つ。じっとしているよりは動いた方がお産が進むと読んだことがあったので、部屋の中を歩いてみていた。後から考えたら、夜中からずっと起きていたわけで、この時少しでも寝ておけば良かったなと思う。陣痛は1日かけてじわじわと強くなっていき、けれど産まれず、次の日の夜中は痛みで眠れなかったのだ。結局24時間以上、まともに眠れず起きていたわけで、いざ産むとなった時に体力が足りないなと感じた。

眠れなくて疲れたのか、夜中にガンガンきていた陣痛は、朝になって少し引いてしまった。破水してから24時間以上経つし、促進剤を使うことになる。促進剤を使ってからは陣痛もどんどんきだして、分娩室に入ることになった。

分娩室に入ってしばらくして、いきんで(力を入れて)いい状態になった。よく「3回くらいいきんだら出てきた」と言うし、実際妹からはそのくらいで産まれたと聞いていたので、よし、もう一息だ!と思ったものの、まぁここからが長かった。陣痛に合わせて何回力を入れても全く出てきている気がしない。何度も何度も何度も。おそらく1時間くらいしてようやくコツがわかった。どうも力をかける方向が違っていたようだ。いきんでもなかなか出てこないという人は、力をかける向きをいろいろ変えてみてもいいかもしれない。

そんなこんなで息子は産まれた。息子の第一印象は、「高い声だなぁ」だった。産まれた瞬間の「おぎゃあ」という声が高くて可愛かったのだ。今現在、特別高い声だとは思わないが、赤ちゃんの頃は高めの声だったように思う。

産まれたばかりの息子を抱っこさせてもらって写真を撮る。立ち会っていた夫と母も一緒に撮った。後から渡された写真を見れば、私の顔は死んでいる。目が開いていない。顔色が悪い。やる気がない。寝ていないし、いきむ時間も長かったし、長時間のお産でへとへとだったのだ。

無事産まれて良かった良かった。しかしここからが、大変だった。少々痛い話になるので、苦手な方は注意されたし。

子どもが産まれた後は、胎盤が出て、その後傷口を縫合すれば終わりである。とりあえず胎盤が出た。一緒にバシャっと言う音がした。なんだろう。羊水が残っているとか?とぼんやり思っていたが、後から思えば血が出た音だったのかもしれない。私はこの一回しか出産を経験していないのでわからないのだが、普通、胎盤が出る時にあんな音はするのだろうか。

その後、縫合してくれるはずが、なかなか進まない。「筋腫はあった?」とか先生が看護師さんに聞いている。「筋腫があると言われたことはないですよ」と私も答える。そうこうしているうちに、何だかよくわからないけれどお腹の中をぐりぐりとされる。正直、陣痛の時以上に苦しいししんどい。「ぐゔぉゔぉ…」と思わず声が出る。何だか水音もする。わけがわからない。

ただでさえお産で疲れているのだ。しばらく我慢していたがしんどくて限界が近づいてきて、「まだ終わりませんか?」と思わず聞いてしまった。恐らくだが、この頃が一番、私が死に近かった時なのではないだろうか。「もうすぐ終わりますよ」と言われ、実際、その後少ししておなかぐりぐりの苦行は終わった。

全て終わった後で聞かされたのは、「子宮内反症」の言葉。妊娠中、胎盤と子宮はくっついているわけだが、出産後、胎盤は剥がれて取れる。しかしうまく剥がれずに胎盤と一緒に子宮も出てくることがある。これが子宮内反症で、出てきた子宮を早く戻さなければ出血し続けて死に至る。

出産前にいろいろ読んだ中で、そういう事もあるとは知っていた。しかし1万件に1件とかの稀なものだし、まさか自分がなるとは思わなかった。そして病院の方針かわからないが、なっても治るまでは教えてくれないんだな。何かあったと患者に知らせてしまえば、焦りからもっと体調が悪くなるかもしれない。そういう危険性を考えて伝えないのだろうか。言われるまで何かトラブルが起こっているとはわからなかった。すごく淡々と冷静に対処して慌てた姿を一切見せなかったお医者さんや看護師さんはプロだなと思う。

結局、出血は2リットルほど。血圧も60だか30だか一時期かなり下がっていたそうで、ヘモグロビンの値も6くらい(通常の半分)になってしまった。一歩間違えれば死んでいたわけで、やはり出産は命がけだな、と思う。

その日は起き上がるのは無理だろうと、分娩室で寝たまま母にご飯を食べさせてもらい、ストレッチャーで病室まで移動した。起き上がってみたのは、次の日の夕方だっただろうか。授乳室に行きはじめる日も1日ずらし、退院も予定より1日伸びた。しかしそれだけ出血してその程度ですむのだから、人体はすごいなぁと思う。

余談だが、分娩後、帰ったはずの夫から電話がかかってきた。車のタイヤがパンクしていたらしい。私は分娩室で横になったまま修理業者に電話し、いろいろ手配した。そんなことをした人は全国探してもほとんどいないだろうなと思う。車のパンクは、もしかしたら私に起こるはずだった悪いことを車が代わりに受けてくれたのかなぁと思ったりして、長年乗った愛車に感謝したのだった。

もしあのまま死んでしまっていたとしても、恐らく私はそれなりに満足していたと思う。子どもを産むという経験をし、産んだ我が子を抱くことができた。そんな満足感の中ぼんやりと死を意識しないまま死んでいっても、それなりに受け入れたのではないかなと思う(あくまで私自身の話であって、夫や周りの人は違うと思うが)。

けれど幸運にも生き続けることができて、息子と4年間を過ごすことができた。今はあの時死なずに息子の成長を見ることができて、本当に良かったなと思う。これからも息子の成長を見続けたいなと思う。これはきっと、子育てを経験したかしていないかの違いで、経験した私はその良さを知ったからこそ、これからも見たいと、そう思うのだろう。

子どもの誕生日を一緒に祝えることは、決して当たり前ではないのだ。それを産んだ時に実感したからこそ、一緒に誕生日を迎えられることを幸せだなと思う。

息子には私よりも長生きして欲しいし、できるだけ沢山、誕生日を祝いたい。次は5歳を目標に、日々生きていくのである。


ではまた明日。