見出し画像

何を得るために生きているのか

 発作の次の日の仕事は不安だった。左腕にまだ痺れもあり、物は掴めても心理的に気弱になっていた。

 病院と連絡を取り合い、ホルター心電図をつける日程を決めた。結局仕事の予定がすでに入っているものをキャンセルすることを躊躇い、来週の金曜日にしてもらった。

1週間以上ある。それまでに発作が起きなければいいと祈る気持ち。その後の結果をもとに診察の日は10月後半になった。中旬で予約が入っていたが、それも仕事の都合で変更してもらった。

治療に向かわなければと思う一方で、静養に全振りできないもどかしさはある。

 病院では不整脈を指摘され、死ぬことはないと医師に言われた。それを信じていたし多少楽観的になった原因ではあるけれど、SNSで不整脈で母を亡くした人の話を読み、徐に不安になってきた。

 そもそも、医師は症状から不整脈に当てはまると言っただけで、数分の心電図では異常は出なかった。違う原因もあるのではないかと思い、仕事帰りのバスの中で検索をしてみた。

 不整脈そのものに「力が入らない」という症状がないことが気に掛かった。検索する中で、「不整脈からの脳卒中」というワードの論文があり、それを読むとそれにしか思えなくなり、昨日のあれは脳卒中だったのではないかと思い始めた。

 また、一過性虚血発作という症状にも当てはまり、それは心筋梗塞の前震のようなもので、それほど間隔を空けずに大きな発作につながる可能性があることを知り、アスピリンを投与する必要があるらしいと知った。

 ネット検索で自己診断というのは愚かだと思うので、不安を無駄に感じるのではなく、できる対策だけを頭に入れることに。

できるだけ多く水分を摂り、頭痛がすれば我慢せずイブプロフェン(家にはアスピリンがない)を服用する。枕元には水と薬を用意しておく。

 そうして昨日の夜は2度尿意を覚えて目覚め、その都度コップ一杯のお茶を飲んだ。やたら喉が渇く気がするのは、気にし過ぎていたのだろう。

 朝は、多少起きにくさを感じたが、昨日の発作のようにはならず、無事生き延びた。

 大袈裟に聞こえるかもしれないが、寝ている間に死んでいる可能性だってあるのだ。

家族の反応が、こちらが感じる深刻さからすれば、まったくもって理解されていないと感じる様子で恨みがましくなる。

 勝手に不安を感じているのは私の方ではあるけれど、昨日医師から不整脈と言われたことを伝えたにもかかわらず、家族はそれをネットで検索でもして調べてくれただろうか。多少は理解しようと興味を示してくれただろうか。

 直接聞いてはいないけれど、肌感としては普段以上に家族が利己的であるように感じ、1人憤慨しながら、これで死ぬとか嫌だなと意地が出てきた。

ある意味、私が生に執着するきっかけになっているという点では、ある一定の役割は果たしているとは言えるな。


 寝ながら、これまでしたいことを少しずつ先延ばしにしてきたことがあるなと振り返り、できるうちにやっておくべきだと思った。

 したいことリストを作り直して確実に実行していくことを今後は意識していくことになるなと、意識が大きく変わったことを感じた。

 生きていることに感謝しながら、何を得るために生きているのかを真剣に考えることが、これからしばらくはバスの中での日課になりそうである。

 今日の仕事は長丁場。
できることを無理せずやれる範囲でする。
私を支えてくれる全てに
いつもありがとう。
行ってきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?