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Kultur ist menschliches Leben.

 哲学をやる理由は単純に考えることが好きだからということだ。昔哲学科の学生は自殺率が高いと親に言われたことがある。哲学を学んだ人と自殺率との相関がなんぼかデータがないので何とも言えないが、ググると京大哲学科の自殺率に言及があった。でも一般的に哲学を学ぶ→自死に駆り立てられるという流れは難しいのではないだろうか。今からの時代は哲学をやる人が生き残るとよく言われる。そんな言葉が出る時点でもう終わりだよなってふと思う。

 「役に立つ」学問とは何なのか。という問いがある。要するに金になる、職に就ける学科は何かという問いのことと変換される。何学部に行けば金になるのだろう。よく理系行けば職が安泰だとイメージが高校時代あった。技術大国日本だったのでそんなイメージが学生の中であった。(今でもそうなのかもしれない)でも理系は賃金の割に大変な仕事である。いくら良い製品を作っても価格競争の波にのまれる。良いプロダクトを生み出すことだけでは生きていけない。

 今日書く内容相応しくない前置きをしてしまった。カルチャーの話をしたい。カルチャーとは1つの暖気に近いものだと思う。ストーブで暖められた空気が部屋を覆うようにカルチャーは小さなエリアから大きなエリアまでを覆っている。例えば学校のクラスなら各々カラーがある。1つの融和した空気がそれぞれ根付く。

 カルチャーとは1つの暖気に近いものだと思う。ストーブで暖められた空気が部屋を覆うようにカルチャーは小さなエリアから大きなエリアまでを覆っている。例えば学校のクラスなら各々カラーがある。1つの融和した空気がそれぞれ根付く。

 カルチャーとは面白いもので類似しているけど、なに1つ同じものはない。それぞれの人が持ち寄ってきた経験や体験が織りなすことで深いものなる。1つのムラ社会なのだろう。でもこれは1つの灯のように生きるバイタルになるものだ。

 街が変革する。それは時代の要請だろうけど、残念ながら再開発して以前の営みが戻る、ということはなくなっている。色々な基準に適合させないといけないが、それにしても寂しい。昔に比べれば人間工学が発達したおかげで快適に利用できるようになったのは事実だ。しかし人間工学に押されるように哲学の出番が薄れていったというのは否めない。身体論や文化論などもっと前に出なければこのような問題は解決しない。

 前述した通り、カルチャーとは人が織りなすことでできるものだ。1人の人間が快適に利用できることを優先したあまり、他人との関係性の優先順位が下がってしまった。その為に無機質な空間が増えたように感じる。カルチャーの成立条件は様々ある。何もないところからカルチャーは起こらない。第一条件は人がいなければなりたたない。それから人と人とを結ぶような空間がなければいけない。
 
 どこもかしこも地方へ行くと一抹の寂しさをどこかに感じてしまう。その一方何かしらのショッピングモールがある。そのショッピングモールは1つの魔法のように地元の人からすれば「夢の国」なのだろう。しかしショッピングモールは無機質な空間なのだ。やがて人に飽きられ、テナントが入れ替わる。それが関の山なのだ。人の関わりがないところに愛なんかうまれやしない。愛もなければテナントはいずれ消えてゆく。

 古びた小さな居酒屋がなぜ続くのがは人との関係性に重きを置いている。空間と人は有機的な結合をする。カルチャーがある限り商売は続くのだ。それを生という。🐓

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