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Tokyo 2021

 自分の言葉って何となく安っぽい。量をこなすほかこの安っぽさは解消されないのかもしれない。そう、小説家のように多彩な感情をパズルのピースの如く嵌めていくことは自分にはまだまだできない。安っぽさに自分は我慢しなければならない。といってもまた筆を持たなくなる。筆といっても単にキーボードを叩いているだけ。情報もだいぶ簡潔した形に変化した。これから文字も溶けていくのだろうか。映像で表現できれば確かに文字の役割は減っていくのだろう。

 気づけば2021年になって、春も目前になってきた。確かに乾いた、冷たい風が身体に当たってくる。しかし空気の匂いは確かに冬ではなく、春の匂いに代わってきている。陽も長くなってきた。2月が折り返しに近づくにつれて、どこか気が緩んでくる。暖かくなればコロナは消える?そんなわけあるか。否応なしに「with」を選んでしまったんだ。「no」に徹底した人を代表にしなかったんだ。それは自分たちに責任があると思う。いや、もっと人文が出てくるべきなんだよと1人で思いに耽る。

 忙しく、目を回された1月が終わった。気づけば終わった。コロナで忙しいとは何て金なる木に縋ってるんだと思う。でも労働者として1本の葦にしか過ぎないんだよ。立ち直れる気力はあるかもしれないけど、太くて堅い木とは違って、風に倒されたり、燃やされたり、刈られたり、脆弱なんだ。そうはいって素直に貯金に回すほど賢くはない。筆を買ったり、本を買ったり、色々と紙に書いてみた。そんな堕落した1月が終われば2月も堕落した日々と別れを告げる、といったわけでもなく2月が進行する。

 そういえば11月に水戸で落とした学生証を回収しに、先週水戸へ行った。掟破りか。東京という街を心の中で規制エリアという思いこみを自分で破いた。東京で1,000人、2,000人という感染者が報道で、SNSで「文字」が流れる。「文字」でイメージが形取られた。別に安全という保証もなければ絶対感染するというものでもない。でも情報が未知との不安を増幅させてしまう。いや、罹った時のリスクは計り知れない。入院できる保証もなければ周りに迷惑をかける。誰が自分の代わりになるの?もしかしたら周りにうつしているかもしれない。そのリスクをどう取るのか。誰か補ってくれる?政府や行政はそれを担保してくれる?責任取らなくてもいいって、ガムシロ入れたコーラかよ。

 明日死ぬ思いで後悔無いように生きると昔の自分は誓った。でも、今の暮らしの惨憺たる悲惨さは一度でもいいから味わうべきだと思った。そもそも底を知らないと自分を破ることができない。ぐーたらしたっていいじゃん。バイトでぐったりしてもいいじゃん。今を生きるって良くも悪くも否応なしに現状を受け容れることなんだ。それができないのに先の将来を心配したり、将来に期待したり、そんなことはクソだって。何事も受け容れろってことだとふと思った。
 今って暗闇?それとも日の出前?それとも今よりもっと暗澹たる未来になる?そんな心配がは全て杞憂だと思う。甘いも苦いもまずは受け容れることが大事なのかもしれない。🐓


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