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Ich steige die Treppe des Erwachsenseins hinauf.

「大人の階段を登る」

 バイトが終わったら急いで旅支度をする。リュックにラップトップとか詰めて家を出る。
 そして横浜からバスに乗った。久しぶりに夜行バスに乗る。以前のような活気はなく、どことなくバスターミナルは物静かな雰囲気を醸し出す。バスとは安く移動できるからよく使ってたけど、3月になってからしばらく乗っていなかった。夏はよく自転車で旅をしてたし、新幹線も度々使ってた。
 ホテルを安く予約できるアプリがあったおかげもあって、旅の幅が広がった。ゲストハウスよりもホテルを選ぶようになって、色々なホテルを知るようになった。バスかチャリかLCCの3択が新幹線や特急にも乗るようになった。旅の幅が広がるのは面白いなと感じる。

 京都に行くときは金閣とか清水とかメジャーなところにはいかない。京都の街並みを楽しむならもっと街を歩いた方がいい。京都は街が面白い。古くからの京町屋があれば大正期のモダンな建物があれば最新の建物までがパッチワークのように織られている。寺に課金するのもいいが、やっぱり街だろうって思っている。
 京都には定期的に訪れる。毎年必ず訪れる。それは京大に未練があるからなのかもしれないが、京都は面白い街だということもある。訪れれば何かしらの発見がある。居心地が特段いいわけではないが、人生のひと時をこの街で暮らしたいという欲望がある。

さてnoteのタイトルにもあるように自分は京大に行きたかった。(過去形)それで3浪したけど、受験勉強を疎かにしてしまったがゆえに今は慶應通信に身を置いている。
京大に行きたいと言い出してからもう6年も経つ。気づいたら自分も年を重ねてしまった。今更京大に行きたいというのは場違いなのか。でもそれは違う。「思い立ったが吉日」とはよく言ったもので、慶應通信に居れば色々な人がいる。それぞれの動機を以て学んでいる姿を見て、今のタイミングで学んでいるとつくづくと感じる。
一見すると人生のレールは踏み外すことに対して受け入れることのできない自分に煩悶していた頃もあった。でもレールを踏み外した瞬間自分の人生が始まるとはこのことなのだろうか。自分の生きる道を見つけることって本当に偶然なものでしかない。非-偶然とは落とし穴のように存在する。しかしそれは人生を見直す契機になるものであろう。

 古本屋を何件も回って色々なものに触れる。古本屋はそれぞれカラーがあるから面白い。美術系をメインに置いているとこがあれば哲学系をメインにしているところもある。古い本には重みがある。綺麗で新品の本もいい。でもそれだけではない味が古本にはある。絶版になったものあれば書店にはおいていないものもある。勿論定価より安く手に入ることもいいが、それだけはない良さがあるのだ。
 関東だったら神保町が有名だが、自分はあまり足を運ばない。規模も大きいのだが、どうしても国家のお膝元、靖国のお隣だからか何かと選別がいいように感じない。これは自分の偏見だと知っている。でも何かと神保町には足を運ぼうと気にならない。どうしても街の波長を本屋は少なからず影響を受けてしまう。

 お高めのホテルで身支度したら夜の四条や先斗町に足を運ぶ。夜の街を楽しめるというのは大人の醍醐味なんだとつくづく感じる。背伸びがしたいとYouTubeで動画を見ながらいつも感じていた。使えるお金は限られるけど、お金を使うことで感性を磨きたいという1つの自己実現が芽生えるようになった。日本酒のキレのよさやその土地の料理に触れることは1つの楽しみになった。

 京都は歳を重ねると違う味わいを楽しめる街の1つなのだ。感性を磨くがために街を楽しむことほど贅沢なことはない。🐓

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