音楽を愛する人のための読書案内(1)――大澤真幸「表現の禁止を経由する表現」

このシリーズでは音楽についての本を紹介する予定です(更新頻度は未定)。ポイントは音楽書ではなく「音楽についての」ということです。さらに正確にいえば、音楽についての論考を含む本、となります。いわゆる音楽書というと、音楽学者や作曲家・演奏家による評伝や楽曲分析の載った解説書を指すと思います。ですが専門家によるものではなくても、素晴らしい本はあります。また、その本全体の主題ではないけれど音楽について述べた個所がある本や、音楽と関係ないことを述べていながら音楽を考える際に役に立つ本もあります。それらのふつうは音楽書と分類されないような本を紹介できたらと思います。

海外に住んでいる都合上、日本で発売される最新の音楽書を手に入れることは難しく、それらに関してはほとんどの方が私より詳しいと思います。なので音楽書を取りあげる場合でも、最新のものというよりも古いけれど今読んでも面白いものやあまり知られていないもの、私にとって興味深いものを中心に選んでいけたらと思います(絶版本の場合も少なくないと思うので、図書館や古書で探してみてください)。手元にあるものには限りがあり、どこまで続けられるかわかりませんが、読書案内として機能しましたら幸いです(なおamazonのリンクを張りますが、アフィリエイトではありません。もしお役に立ちましたらサポートしていただければ幸いです)。

大澤真幸「表現の禁止を経由する表現」(『恋愛の不可能性について』ちくま学芸文庫)


大澤真幸の著述はいつも、ある喜びに満ちている。それは世界を発見する喜びである。読者は、世界の謎に出会い、それを考え抜き、ひとつの理解に到達する体験を大澤と共有する。そして世界の見え方が豊かになったことに気がつく。

本書でもいくつもの謎が共有される。その発端は古代ギリシャ(ヘレニズム)と古代ユダヤ(ヘブライズム)というヨーロッパの二大源流において、なぜ前者では芸術が栄え後者では貧困なのかという問いにある。その答えは神を表現することの禁止、つまりよく知られる偶像崇拝の禁止にある。だが大澤はそこで問いを止めない。なぜ神を表現してはいけないのか、そもそも表現とは何で成り立っているか、と問題を掘り下げていく。

大澤によると表現とは「表現するもの」と「表現されるもの」から成る。前者は差異によって与えられる形式であるのに対し、後者は同一性を備えた対象である。ではなぜ同一性を差異によって提示することができるのか。なぜ芸術にあってはその構造的矛盾が気づかれないままなのか。

ギリシャにおいては実体(表現されるもの)が形式(表現するもの)と対応するとみなされていた。同一性をもつ実体が形式を保証することにより、そこに存在する差異性は隠蔽されていた。分かりやすく言い換えよう。なぜある彫刻を見たときに、それが神の姿であるとわかるのか。それはギリシャ人が神というモデル(表現されるもの)を知っていて、それに照らし合わせて彫刻(表現するもの)がつくられているからだ。だがそうすると人間が経験的に知っている範囲でしか神の姿を現すことができないことになってしまう(だからギリシャの神々は人間くさい)。

また、これは逆に捉え直すこともできる。つまり表現するものによってはじめて表現されるものが存在するとも言える。人々が彫刻をつくったから神というものの存在を信じるようになったということである。すると実は神は存在せず、仮象にすぎなくなってしまう。

そもそも差異による形式とは何だろうか。それはそれ以外の可能性を否定することではじめて成り立っている(例えば、ドはレ、ミ、ファ、ソ、ラ、シのいずれでもないということでしか定義されえない)。そうであるならば「表現するもの」は別の否定された可能性の上に成り立っているということになる。別の言い方をすれば、他でもありえたかもしれないという可能性が常に付きまとっている。これでは絶対的な唯一の神を表現しようとしても、神は他のあり方であったかもしれないという可能性が残ってしまう。差異にたよっていてはいつまでも絶対唯一の神の存在を保証できない。この無限後退を止めるには、神の表現そのものを禁止するしかない。そしてそのことで、神の絶対的な超越性を担保するしかない。かなり大雑把ではあるが、大澤が古代ユダヤの偶像崇拝の禁止に見出した逆説をまとめるならこのようになる。

大澤のユニークなところはこのギリシャとユダヤにおける芸術のあり方の対立を、音楽におけるロマン派と20世紀の形式化(十二音技法)に重ね合わせることである。ロマン派の音楽においては音楽的形式は自立していない。それは表現されるべき内面との対応においてはじめて意味を持つ。つまり音楽外の実体(表現されるもの)が差異の形式としての音楽作品(表現するもの)を保証し、そのあり方を規定している。これはギリシャにおいて見られた芸術観である。

しかし十二音技法、そしてトータル・セリエリズムにおいて頂点を極める形式化の自立は内面を必要としない。表現されるものの存在なしに、表現するものだけがある。表現するものを支配する規則は、表現されるものによって制限を受けることはない。もし形式を支配する規則が表現されるものによって制限されるなら、それはその規則が外部の実体によって支えられていることを意味してしまう。すなわち音楽の完全な形式化が成り立つには、その外部の実体を表現することを禁止する必要がある。そのことではじめてその秩序全体を支配する精神の働きが逆説的に見いだされる。これはまさに音楽における偶像崇拝の禁止である。

大澤のこの論は必ずしも実際の作曲家たちが考えたことと一致しているわけではない。しかし私たちはそこに、ヨーロッパ文化の根底にある、歴史を貫く論理パターンを見て取ることができる。事実大澤の論述はその後のジョン・ケージによる実験音楽やミニマル・ミュージック、さらにその先の展開までをも含む、長い射程を持つ。

私個人の経験になるが、聴いても弾いてもなかなかピンとこないある音楽作品や作曲家について、著作や絵画など音楽以外のメディアに触れることで一気に理解が深まることがある。大澤のこの論考も、一見難解な20世紀の音楽に明確な見取り図をあたえ、私たちの理解を深めてくれるものだろう。




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