音楽を愛する人のための読書案内(3)――山本貴光・吉川浩満著『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』

山本貴光・吉川浩満著『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』(筑摩書房)


とある北関東の片田舎。ぽつぽつと、力ない音色のピアノの音が聞こえてくる。

新野見 (ミレミレミシレドラ~……)はあ、もう本番まで1ヶ月もないのに。
ドアをノックする音。
新野見 誰だろう? 
ドアを開けると、そこには髭をのばした老人が立っている。
新野見 ええと、こんにちは(ギリシャかローマを旅行した時に会った人かな?)
謎の老人 ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。
新野見 あの、どちら様で……
謎の老人 やっとるかね。
新野見 ええ、やっとりますが……まさかその口調は……エピクテトス先生!?
エピクテトス先生 左様。
新野見 あの、本日はどのようなご用件で(どうしてこんなところに?)。
先生     このところニコポリスの学校もZoom授業となってしまってな。運動不足解消にちょっと散歩をしていたところ、なにやら迷いの音色が聴こえてきたゆえ、立ち寄ってみたのだ。
新野見 流石です! 先生にはそんなことまでわかってしまうんですね。
先生  悩みがあるのなら、話してみよ。
新野見 実は来月演奏会があるんですが、私はいつも舞台に立つと緊張して失敗してしまいがちで……今回もちゃんと弾けるか不安なんです。
先生  ふむ。
新野見 ホールも初めて弾くところで、楽器もどんな状態だか。会場が地元じゃないので、お客さんもどんな人たちが来るか予想つかないし。ああ、想像しただけで緊張してきた。
先生  ところで君、今年2020年3月に筑摩書房より刊行された、山本貴光・吉川浩満著『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』(定価1,540円)は読んだかね?
新野見 はい、読みました(付箋のついた本を書棚から取り出してみせる)。
先生  うむ、大変よろしい。あれはいい物だ。それでは、そこに何が書いてあったのかを思い出してみよ。
新野見 ええと、「理性はできる子!
先生  うむ。確かに理性はできる子である。理性による判断と行動こそストア派において重視されていた生き方であるからな。では、その理性的能力を使って、具体的にどんなことを判断するのかその本には記されてはいなかったか?
新野見 う~ん、「打てないボールは、打たなくていい」。 
先生  そうそう、それをもっとほら、こう松井じゃなくて、もっと哲学っぽい言い方で。ヒントはけん○○。
新野見 あ、そうだ。権内権外
先生  うむ。その通り。ようやく思い出したようだな。
新野見 はい。
先生  では説明してみよ。
新野見 権内とは自分のコントロールができる範囲のこと。逆に権外とは自分のコントロールが及ばない範囲のことです。
先生  よろしい。
新野見 権外のことに心を乱されることなく、権内にあるものにしっかり取り組む。それが先生の考える、心を平穏に保てる幸福な状態でしたね。
先生  花まる。では、実際に君の置かれた状況について考えてみよ。演奏会が不安と言っていたな。
新野見 そうなんです。本番になると、あまりうまく弾けなくなってしまうんです。そのことが不安で、練習していても失敗することばかり想像してしまって。
先生  では演奏会を具体的に考えてみたまえ。演奏会の日程は?
新野見 決まっています。
先生  場所は?
新野見 それも決まっています。
先生  ピアノは?
新野見 会場にあるものを使います。
先生  たとえもう少し練習時間が欲しくても、その日は待ってくれない。たとえ音響が気になっても、その会場でそのピアノに触れるのは、当日までできない。つまりこれらは現時点で権外だと言える。
新野見 はい、そのようです。
先生  そうであるならば、それらに心を乱されてはならない。
新野見 わかりました。
先生  では逆に、権内にあることを考えてみたまえ。
新野見 はい。まず、とても当たり前の事ですが、練習することができます。まだ本番までもう少し時間があるので、練習の計画を立てることもできるし。
先生  うむ。まずはそれが基本である。どうにもできないことを気にするよりも、できることを確実にこなすのだ。
新野見 あとは、そのホールで開かれる別の演奏会に、一度行ってみようと思います。
先生  それはよい考えである。実際の演奏は当日しかできないかもしれぬ。しかし、他の人の演奏であっても予め聴いておけば、自分の本番もある程度想像できるようになるだろう。
新野見 そしてそれに合わせた練習ができるようになります。
先生  その通り。
新野見 はい。それからピアノに関しても、もし調律師さんと事前に打ち合わせできれば、ある程度自分の弾きやすいように調整してくれるかもしれません。
先生  それもよいだろう。今君の言っていることはすなわち、権内を広げることだと言えるだろう。一見権外に見えることでも、よく考えそして行動するならば、もしかしたらそれは権内となるのかもしれない。
新野見 なるほど。そういえば先生もZoomで授業しているとおっしゃっていましたね。
先生  うむ。この場合、テクノロジーが権内を広げてくれたと言える。しかし注意しなければならないのは、権内が広がったからといって、権外がなくなったわけではないということだ。
新野見 というと。
先生  たとえばもし君が自分の好みを調律師に伝えたとしても、彼がその通りに調整してくれるかどうかはわからないではないか。君の注文は彼のポリシーに反するかもれないし、彼にそれだけの能力がないかもしれない。
新野見 たしかにその可能性はありますね。
先生  もし君の思うとおりに調律してくれたとしても、聴衆が入ることで響きが変わり、君のもともとの理想とはズレてしまうかもしれない。したがってここでもまた権内と権外の線引きをしっかりと行うことが肝要である。しっかり自分の要望を伝えるだけ伝える。それだけこなしたならば、その後についてはくよくよと気にしないことだ。
新野見 はい。そのように気をつけます。
先生  よい心がけだ。
新野見 でもやはり、十分に準備したとしても、緊張してしまって本番で失敗してしまわないか不安です。それにたとえうまくいったとしても、お客さんがどう思うか。
先生  君はもう権内と権外の区別の重要性を忘れてしまったのか。ひとつずつ考えてみなさい。演奏が成功するか失敗するか、これは君の権内と権外、どちらに属するのだ?
新野見 しっかりと練習すれば、権内だと思いますが……
先生  ふむ。ではもう君はどんなに難しい曲でも弾きこなせているようだな。練習時間さえかければ、絶対に間違いは犯さなくなるようだな。
新野見 いえ、全くそんなことはありません。
先生  ではそれは君の権内ではなく、権外にあると言えるのではないか?
新野見 確かに、そうかもしれません。どこまで練習しても、決して権外はなくならないようです。
先生  気づいたようだな。そう、自分の身体もまた権外にあるのだ。その本の79ページを読み返してみよ。卓球をこよなく愛する私の弟子が、ちゃんと言っているではないか。
新野見 そうでした。考えてみれば、どんなに偉大なピアニストでも曲によって得不得手があります。彼らの舞台での失敗談も、インタビューや録音で知っています。
先生  ならばうまく弾けるかどうか、そんなことを考えてもしかたないだろう。「弘法にも筆の誤り」と昔から言う。少なくとも自分のやってきたこと以上のことはできないと思っておくべきだ。
新野見 はい。ホメロスも間違えると言いますしね。
先生  それと君は、他人の評価も気にしていたようだな。
新野見 はい。お客さんの反応はどうしても気になってしまいます。
先生  では考えてみなさい。君は他の演奏家のコンサートを聴きに行って、その印象や感想を演奏者にコントロールされているのか?
新野見 もちろん、そんなことはありません。そうか、これも権外ですね。
先生  その通り。同じ演奏を聴いても感想は人それぞれだろう。どんな大家の演奏でも感想はわかれるものだろう。
新野見 確かにそういうことはよくあります。
先生  権外のことに心を乱されない。これが鉄則である。
新野見 理解しました……でも先生、それでもやはり緊張してしまうというのが、人間ではないでしょうか?
先生  そうだな。だがそのような心象をどう取り扱えばよいのか。それもあの本に書いてあったはずだ。
新野見 そうだ。心象の正しい使用だけが私たちに可能な唯一のことでした。
先生  本書100ページからの議論を読んでみよ。欲望や欲求をなくせと言っているのではない。欲望を禁じるのではなくコントロールすることこそが必要である。禁欲主義ならぬ操欲主義とはこの弟子たちもよく考えたものだな。関心関心。操欲主義的生きることこそ、心の平穏には最重要なのだ。
新野見 先生はそのためには練習が欠かせないとおっしゃっていますね。
先生  左様。普段から見聞きするあらゆるものを、権内か権外か考えてみよ。Wi-Fiが遅いか。基準を当てがって見るといい。それは意志外のものか、それとも意志的なものか。意志外のものである。棄てるがいい。隣の家からもらったみかんが腐っていたか。基準を当てがって見るといい。それは意志外のものか、それとも意志的なものか。意志外のものである。棄てるがいい。父ちゃんの足がくさいか。母ちゃんのいびきがうるさいか。基準を当てがって見るといい。それは意志外のものか、それとも意志的なものか。意志外のものである。棄てるがいい。
新野見 なるほど。私も実践してみます。寒くてこたつから出られないのは意志外のものか、それとも意志的なものか。意志外のものである。棄てるがいい。こたつに入っていていいんですね!
先生  それは……知らぬ。まあなんか超寒いし、よいのでは?
新野見 なんだか心が穏やかになってきました。先生、本当にありがとうございました。
先生  日々基準をあてがう訓練を怠らないことが大切である。ピアノと同じ、練習あるのみ。
新野見 はい、精進します! ところで、ひとつだけ。ちょっと失礼な質問かも知れませんが……先生は本当にエピクテトス先生なんしょうか?
先生  なに?
新野見 本書の中でも山本さんがコスプレではないかという疑問を呈していますし……
先生  基準を当てがって見るといい。
新野見 それは意志外のものか、それとも意志的なものか……
先生  意志外のものである。棄てるがいい!
新野見 はっ、いつの間にかまた権外のことに捕らわれていました。
先生  わしの正体なんぞに惑わされてはならぬ。心象を正しくコントロールし、権外のことに心を乱されないことが大切である。おっと、もうこんな時間か。そろそろラーメンでも食べて帰るとするか。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。
新野見 先生、さようなら~。お気をつけて! そこの店は餃子もおいしいですよ~。さ~て、なんだかやる気がわいてきたぞ。

再びピアノの音。その音色は心なしか、自信に満ちているように聴こえた。


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