吉川浩満『哲学の門前』——簡単な感想

吉川浩満自身がはっきりとそう書いているわけではないが、これは遅れについての本であるといえるかもしれない。「哲学は驚きから始まる」とは吉川も引いているアリストテレスの言葉だが、おそらく人はその驚きの渦中にあって自分が哲学的経験をしているとはわからない。それが哲学であるという認識は、つねに遅れてやってくる。

吉川は黒人のタクシードライバーの差別発言に応答できなかった経験やサークル内での環境型ハラスメントに気づくことができなかった経験など、「恥ずかしながら、失敗や不如意にかかわる」経験を赤裸々に書く。それらはいったいなんだったのか、後から理解しようと——おそらくは実際に書きながら——試みる。そして、そのとき自分が「哲学の門前」に立っていたことに、いま自分がその門の中にいることに——あるいは〈掟の門の前の男〉になっていると——気がつく。本書に描かれているのは、概してこのような遅れ=哲学の経験である。

本書の白眉のひとつはカフカとウォーレンの有名なアフォリズムをつなげる下りだろう。

君と世界の戦いでは、世界に支援せよ。なぜなら、きみは悪から善をつくるべきだ、それ以外に方法がないのだから。

(「なぜなら」に吉川による傍点)

この「なぜなら」を導くための詳しい理路は本書に譲るとして、吉川のこのような態度こそ、その遅れの原因なのかもしれない。もし吉川が「君」(あるいは「きみ」)に、すなわち自分に支援するのであれば、その遅れは生じないはずだ。自分の主張をするだけなら、あるいは自分のために立ち回ることなら、誰でも即座にできる。だが吉川はそのような「闘争」も「逃走」もしない。世界をみつめ、そこに言葉を与えようとする。そのときに経過する/経過してしまった時間にこそ、哲学の余地が生まれている。

そのような吉川浩満という(原稿締切も株の売却も遅れてしまう)生身の人間の、驚きとユーモアにあふれ、それでいて切実な経験を読みながら、私たちもいつしか「哲学の門前」をさまよい歩いていたことに(遅れて)気づくのである。


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