賢者は笑い愚者は悼む

タレントが自死した報道に対して、それまでのバッシングから180度転換した哀しいという声が並ぶ。そして、その声に対して掌返しをしやがってと賢しげに語る言葉が並ぶ。誹謗中傷に対しての誹謗中傷。

ほら、わかりやすくこの世界から争いがなくならない理由の一つが現れている。自分は正しく、それ以外は間違っているという考え方。そらそうか、自分の世界では自分が主役で、それを誰かに委ねるほうが恐ろしいよな。

それを踏まえた上で、大して関係性のない人に対してのバッシングそのものを見直す時期なんだろうなと考える。権力や法律のみでそれがなされるのは危険だし、馬鹿げた規制に繋がるのはまっぴらごめんだ。

成されるとすれば、それは今育つ子どもたちに対しての教育なんだろう。どれだけ地味で即効性がないとしても、人を安易に傷つける言葉や言動は世の中をギスギスさせるぜというアナウンスが必要。

などと書きながら、自分の中の悪意はこう囁いている。人が亡くなって間もない時に、その死を悼む気持ちすら自分を冷静だったり賢しく見せるマウンティングに繋げるその姿、最高にダサくないか?と。

攻撃的な言葉だし、悪意もある。ただ、それでも自分の正直な気持ち。人が亡くなった時に悼む気持ちよりも、そういった他者への批判が先立つ人には殺気立ってしまう。ふざけんなよと。愚かで短絡的な感情的な私は怒りを隠しきれない。

考え方はそれぞれだから、掌返ししてんじゃねーよってのも素直な怒りなのかもしれないけど、死ねば仏と生前のあれこれはありつつも、安らかな眠りを願うことを揶揄するみたいな考え方が増えていくのは、やっぱりなんだか残念だし、悲しい。

つぶやきにもかいたけど、人が亡くなるのはしんどい。関わりのない名前を知ってる程度の人でもしんどいのだから、家族や友人ならなおさらしんどいだろう。

あまり、執拗に原因や背景を掘り下げ、騒ぎ立てることがないように願う。さんざ悩んで下した結論の後に自分含む外野が、ああだ、こうだと騒ぐのはやめておきたい。


バンドマンや歌手、タレント、アーティスト、どんな人も1度生まれて1度死ぬし、毎日が誰かの誕生日で誰かの命日。そこに変わりはない。

自分の命の終わりを、自分で決めることの是非は私にはわからないし、それを嗜める人の善意全てを否定するつもりはないけど、命は尊いから、どんなことがあっても生きていなければならないなんて相手の状況もしらないのに強い言葉を押し付ける人は、やっぱり俺は苦手だし嫌いだ。

いつか、みな終わりを迎える。悲しみや苦しみを耐えられる人が偉いわけじゃない。みんな耐えてるのみんななんて、実数が把握できるわけでもない。

だから、関わった相手には笑っていてほしいなあとか、楽しみがあることで、しんどさが埋まればいいなと身勝手に願うだけだ。それもエゴだと知りながら。

旅立ってしまう人には、悲しみと、安らかにと悼むことしかできない。少なくとも自分はそう思う。悼むことしかできない愚者であろうとも、今世の旅を終えた人にできることはそれくらいしかない。

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