ドキュメンタリーは嘘をつく

ドキュメンタリーで語られる無名の人の人生。無医村にやってきた新任の先生だったり、心を病んでひきこもりを数十年続けている人だったり様々だ。

無機質なカメラをもって、撮影者は動画を回し、やがて撮影者の意図で切って貼ってを繰り返したのちにドキュメンタリーは完成する。個人の映像でありながら、誰かの作品へと移り変わるわけだ。

ドキュメンタリーは事実のみを映すわけではないと言うことを前提にしないと、自分が受ける心の感覚も鈍くなってしまうような気がする。出されたものを、そのまま受け入れるだけではなく、自分というザルで漉して、残ったものを再度自分なりに咀嚼しなければ身にはならない気がする。

レトルトやインスタント食品は料理ではない理論を振りかざし、己が金銭に任せて得た美食やら自然食の正しさや栄養に酔うように、エンターテイメントを軽んずる人は幾らでも見てきた。それと同じように、ドキュメンタリーの社会的意義ばかりを語る評論家を嫌悪している。

森達也さんのエッセイやドキュメンタリーは、常識や良識とされることを一個ずらした視点で面白いと思うが、そんな人でもポジショントークと党派性からは逃れられないのだなと昨今の言動を見ていると考える。思想というのはつくづく居場所であり、宗教なのだな。

これは映像に限った話じゃないけれど、誰かが本当のことだと声高に叫ぶことが本当にそうなのかを考えてみる事は必要なんだと思う。まして映像はこれからさらにAIだのなんだのと、捏造の精度が高いフェイクニュース御用達なものが簡易に作られていくだろう。

昔、ひろゆき氏が当時の2chに対して、嘘を嘘と見抜けるようでないと使うのは難しいみたいな発言をしていた記憶があるけど、真偽のみならず、それが何を意図して流されるのかを陰謀論でなく、己で捜索して捜索していかなければ厳しくなっていくような気がしている。

せめて己が歩む自分の道や考え方は無修正のどぎついやつでも目を逸らさずにやっていきたいな。

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