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Märchen

白馬に乗った王子様は、現代で言うとフェラーリに乗った社長なんだろうかと、ふと考えた。
中世の馬→現代の車と定義すると、そんな感じかなと。フェラーリのエンブレムも馬だし、かなり高級な車だから、そう間違ってはいない気はする。

だがしかし、中世の平民は移動手段としての馬を当たり前に持っていたわけではないだろうから、そこを加味するとプライベートジェットを持ったか、あるいはジェットクルーザーを持ったがふさわしいのか。どちらにしても、ほとんどの人が持っていなくて、俊敏な移動手段であるものではあると思う。

しかしまあ、考えて見れば貴族の家に嫁にいくなんざ、現代ならかなりのストレスがかかるだろうな。海老蔵氏のところに嫁いだ小林麻央みたいなもんじゃろうか。梨園、つまり歌舞伎の世界の中にはしきたりであるとか、独特の風習のようなものが色濃くあるのだろうし、男子を産まなければならない(跡継ぎ)というプレッシャーも大きいだろう。

あるいは、王子は読んで名のごとく、王の子なのだから、皇族に嫁ぐレベルなのかもしれない。雅子様が受けているバッシングを考えると、これから皇室に嫁ぐ女性なんて、簡単に見つかるのかいなと思う私は、先日、小林よしのりの新・天皇論を呼んだ影響が出てますね。この前、友人にあんたはその時読んだ本とか、聴いている曲などの影響を受けすぎると言われたけれど、当たっているんだろうなそれも。


童話もドラマも、最終回の後で主人公が幸せに暮らしたという言葉で終わる事はあっても、それがどんな幸福なのかという描写は存在しない。ハリウッド映画的なハッピーエンドで終わる物語の方が珍しい国ではあるが(その辺に日本の悲観主義が現れているが、だからこそ日本の物語は複雑で面白くもなり得る)日本の未来の安定とか、輝きというものは昨今の報道からは感じられない。没落する未来ばかりをアナウンスしているからだ。


例えば、マリーアントワネットのように王に嫁いでもギロチンで首をはねられた女子もいる(もっとも彼女は平民ではなかったが)。絶対の幸せなんて、青い鳥の例を出すまでもなく、絶対のモノではないのだ。幸せの青い鳥が身近にいたっていうことは、幸せは実は側にあるということなのだろうけれど、それを幸せと本当に呼んで良いのかだってそれぞれで変わる。

飢えていれば幸福を呼ぶ鳥でも丸焼きにして食べてしまう残酷さと、愚かさを人間は持っている。当然、個人差はあるけれどね。本当に飢えたときに可能性という名前で、生きることよりも望みを優先させることが正しいとは限らない。輝かしい未来はなくとも、生きていれば明日はある。

ここで、また反証をしてみるが、アリとキリギリスでは、冬を越して新しい歳月を得る勤勉なアリが生き残る。けれど、キリギリスは本当に愚かで惨めな生き方をしたのだろうか。遊んでばかりで、楽器演奏など芸術行為に耽っていたキリギリスの生き方だって、彼らの価値観では幸福ではないのだろうか。


というような童話の世界と現実の世界への比較というか、リンクする部分を考えてみると、中世と現代の自由度の高さとか、変わっていない支配者の統治願望なんてものが見えてきて面白いなと思う。本当は残酷なグリム童話に代表される、実は童話は恐ろしいという話は、その残酷さだけではなく、それが書かれた意図含めて恐ろしいなと思う昨今である。

とは言え、夢も見られず、ただ呼吸をするために、必死で誰かにこき使われろって世の中にされて、奴隷化されるのも物語としてはつまらないよね。それが嫌だから、エジプトではあの革命が怒ったのだろうし。

人は自分の幸福度も物語も、誰かと比較してはいかんのかもしれない。相対的な幸福ではなく、主体的な幸福、自己満足の自分の物語を紡いでいかなければいかんのかもしれないなと思う。それがどんなに幼稚で、他人からは夢物語だと笑われたり、陳腐だと笑われたとしてもだ。

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