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いわゆる完遂をしたらしい

誰かの何かになるか分からないけど、記録。

何があったか

3日前、公園で首ブラリしていたところを発見され救急搬送。
【乖離性昏迷】と診断され2日間入院。

私のあらすじ

強い希死念慮を初めて持ったのは18歳の誕生日。
けれど当時の私はどうすれば安楽死出来るのか分からなかった。
痛くて苦しいのは嫌だった。
「あと5年でやりたい事をやり、お金を稼いで東尋坊へ行こう。」
そう決意してその晩は眠った。

5年後には現在のパートナーと出会っており、仕事も順調で希死念慮は極めて薄く、そのまま生きることにした。
しかし不思議なことに、その年は健康診断で子宮頸がんの種が見つかったり(手術で無事切除された)、誕生日後に吐き気が続いたりと、身体の不調は度々起きた。

2年後、職場の人間関係が原因で心身に不調が現れる。
当時在宅ワークだったが、朝の散歩から帰宅出来なくなったり、ノートPCを開くことができず、遂には起き上がれなくなった。
初めて精神科を受診し、【ストレス性障害】と診断される。
ただ、この時は希死念慮よりも仕事や将来に対する不安が大きく、半年ほど休職してから転職したことで、社会生活に復帰出来た。

そのまた2年後、ここで人生が大きく変わる。
転職・引越し・同棲・結婚を1~3月で一気に行った。
職場の人間関係に気を揉み、元々苦手だった同棲生活でも気を揉み、気づけば心身共にダウンしていた。
8月の何でもない日の退勤後、急に体に力が入らなくなり、立つことも歩くことも声を出すことも出来なくなった。
幸い部屋にあったホワイトボードを、床を這って手に持ち、文字を書く事でパートナーと会話することが出来た。
2日ほど芋虫のように床を這い、1週間ほどろくに声が出ない期間が続いた。
この時期に、強烈な希死念慮が襲った。
首に刺そうと果物ナイフを手に持ち、血を洗いやすいように気を遣って風呂場へ行った。
何度も首筋にナイフを突き立てたが刺さらず、心底の恐怖から刺すことが出来ず、力尽きてその場へうずくまった。
間もなくしてパートナーに発見され、その後精神科で【鬱病】と診断された。

そこから半年間、投薬治療を続け、仕事を辞め、今に至る。

今回の経緯

4日前 ライブイベント参加
某アイドルの生誕ライブだったのだが、ファンからのプレゼント企画の幹事になって奔走していた。
なぜ幹事になったのかは、完全に勢いである。
元々マネージャー気質がある方なので、いつの間にか体が動いていた。
心身に負担が無いように周りに甘えつつ、のつもりだったが、当日は開演前から既に疲労を感じていた。
カンパの集金などで更に心が疲弊し、終演後には限界を迎えて足早に帰路へ着いた。
信号待ちで立っているのも辛い状態で、帰宅後はそのまま廊下へ倒れ込んだ。
寒さに耐えられず、1~2時間かけて床を這い布団へ潜り込んだ。

3日前 夕方
空腹に耐えられず起き上がり、冷蔵庫にあったカヌレとプリンを無心で食べた。
食べながらずっと「何で生きているんだろう」などのことをぐるぐると考えており、プリンを口に運ぶ時、突如猛烈な希死念慮と悲しみに襲われた。
食べるのを辞め、以前書いた遺書のようなメモ紙を引っ張り出してテーブルへ置き、処方されていた睡眠薬全てと飲みかけの烏龍茶と細い革ベルトを持ってそのまま家を出た。
「死のう」ということ以外頭に無く、靴も履かずにパジャマのまま近くの小さな人気の無い公園へ真っ直ぐ向かった。

ちなみに革ベルトを使って公園で、というのは以前から考えて決めていたことだった。
(家やどこかのビル内だと事故物件になって損害賠償が掛かりそうだから)

そしてアレした

公園に着くと人はおらず、ふたつあった鉄棒の高い方を選んで力を振り絞ってベルトを結び、睡眠薬をひと粒ずつ口へ入れまとめて烏龍茶で流し込んだ。
そしてそのまま首に輪を掛け、地面に座るようにして体重を掛けた。

少ししてひとり、またひとりと通行人が後ろを通って行ったが、声を掛けてくる人は居なかった。
「さすが東京、人が死のうとしていても声は掛けないんだな。」などとぼんやり思った。
想定では眠くなっていつの間にか宙ぶらりん、だったが、なかなか眠くはならず、首が締まる苦しさは勿論だがそれ以上に顔が圧迫されて眼球が飛び出しそうな痛さの方が辛かった。
けれど首の輪を外すことも、立ち上がってベルトを解く気力も無く、死にたいけれどしんどい、さてどうするか、やっぱり別の方法が良かったかな、誰か運良く解いてくれないか、などと考えていたところを、1人の男性が助けてくれた。
声を出すことも体を動かす気力も無く、何も応じることは出来なかったが、話していることは全て聞こえていた
ベルトを解いて横たわらせてもらっていたところ、パートナーも駆け付け、そのうち救急車も到着し、あれよあれよと搬送された。
目を開くことも出来なかったが、死に損なった悲しみと申し訳なさで涙が溢れて流れていた。

搬送~処置室

首は急所なので大きい病院でないと処置出来ないらしく、大学病院へ運ばれた。
病院名は聞こえていたが場所は分からず、「どこにあるんだ」と心の声。

病院に着き、処置室へ運ばれ、色々な検査をされた。
コロナの検査とインフルの検査、あと初めて尿管を入れられたのがしんどかった。
声は出せないが眉を寄せたり苦痛な表情は少し出来る。
あと心の中では割と喋れる。

髪の毛に砂利と何かのテープ?が着いていたようで、取るのに手間取った医師が「髪切っちゃう?」と言っていて、「ええ~、でもずっと坊主にしたかったくらい髪に頓着だけど変な髪型にはなりたくないな」などと思っていたら、女性医師が「いや女性だしそれはやめましょう」と止めてくれて少しだけ感謝した。

医師が研修医に縊死の仕組みを解説していた時は、研修医と一緒に「へ~」と相槌を打った。
(気管支が締まって窒息、と思われがちだが、正確には静脈、動脈の順に破壊され、最後に気管支が締まって死ぬらしい)

CTスキャンの機械に入れられた時は「なんか怖いから目瞑っておこう。ずっと瞑ってるけど」とか、息吸って~止めて~と言われる度に「タイミングむずい」と心の中で突っ込んだりしていた。
母親が来てくれて「パートナーさんもいるよ」と話し掛けてくれた時も、「分かるて」と心の中で返事していたし、病室へ運ばれている時は「プーさんのハニーハントみたいだな~」なんてお気楽なことを考えていた。

医師によると、私は【乖離性昏迷状態】とのことだった。
意識はあるが、外界をシャットアウトしているとのこと。
「確かに何も反応出来ないのでシャットアウトなのだろうか。しかし聞こえてはいるし心の中で返事もしているからなぁ」などと考えながら、パートナーの「初めて聞きました」という発言に「私も」と心の相槌を打つなどしていた。

病室

4人部屋に入った。
私があまりに何も反応出来ない為、看護師さんを困らせてしまって申し訳なかった。
特に何も出来ず、する事もしたい事も無く、ただただ横たわって時が過ぎた。
消灯時間になる頃には割と目が開いて、眼球だけで周りを見渡していた。
入院は2度目だし病院で鳴る音もそんなに気にならないが、やはり何となく落ち着かなく、少し眠っては起きてを繰り返した。
眠る度に夢を見るのだが、何故か悪夢かどエロい夢しか見なくて、何で?となっていた。
渋谷で手当り次第の男性をナンパしまくる夢など見ていた。何で?

隣の患者さんは体を動かす度に「痛い、痛い」と言うので、私はその度に「がんばれ!」と、
斜め前の患者さんは度々痰が絡んで咳き込んでいたので、その度に「がんばれ!」と、
前の患者さんはそれらに反応してたまに「うるさいなぁ」とぼやくので、その度に「しゃーないやろ!」と
一晩中心の中でツッコミながら静かに横たわっていた。

翌日は寝返りを打ったりなんとか起き上がれるようになったものの、まだ声を出したり手を握ったりは出来ず、相変わらず医師と看護師さんを困らせた。

「話せるように」と謎の薬を点滴から注入された。痛かった。

家族が面会に来てくれて、10分ほど何も反応出来ない私の体をずっとさすりながら話し掛けてくれた。
私は心の中で「そんなにさすらんでも、地蔵やないんだから」と突っ込んでいた。

面会が終わり暫くして、少し声を振り絞って看護師さんに尿管を取ってもらえるようお願いした。
自分でトイレに行ける安心感と、下半身の違和感が無くなりかなり快適になった。

この日はお夕食を頂けた。
しっかりした食事は2日ぶりくらいだったので、猛スピードで食べた。
といっても点滴の針が痛くてうまくお箸を使えず、変な持ち方で爆食した。
鮭のちゃんちゃん焼きがご飯に合ってとても美味しく、思わずアンケートに「美味いンゴ」と書きたかったが、ペンが無かったので書けなかった。
食事をしただけで少し疲れて、食後はテーブルに顎を乗せてボーッと休んだ。
暫くして歯を磨いて、トイレを済ませ、また横になりボーッとしていてた。

看護師さんからお話があり、精神病棟のある病院に転院するよう勧められ、家族も賛同しているとのことだった。
それを聞いて私は、「行動を縛られるよりは、家にいてパートナーとお散歩したりする方が元気が出るだろう」と思い、翌日パートナーに話してそれを了承してくれるか、私との生活が嫌になっていないかと不安になりながら眠りについた。

退院

朝が来て、朝食を頂いた。
とにかく動いていないからか食欲が湧かず、今回は1/3ほど残してしまった。

割と直ぐに退院の準備が始まり、パートナーが持ってきてくれた洋服に着替え、ヨロヨロと病室を出た。

家族と共にタクシーで精神病棟のある病院へ移動。

精神病棟への入院を医師と相談した。
医師から「いつから希死念慮があるのか」「何か原因はあるのか」とヒアリングされたが、家族のことも少しあるので話しづらく、言葉を詰まらせた。「話しづらい」と答えた。
入院について、パートナーは「本人が嫌でなければ入院して元気になってほしい」とのことだった。
医師から「どうしますか。入院しますか?」と聞かれたので、私ははっきりと「入院はしたくない」と答えた。
パートナーは、「それなら、一緒に帰ります」と言ってくれて、とてもホッとした。

精神病棟はどんな所なのか尋ねたところ、よくイメージされる暗い閉鎖病棟のような感じではなく、面会が週1だったり外出は出来ないが、ちょっとしたベランダもあるし、皆で集まってテレビを見たり本を読んだりする部屋もあるとのことだった。
面会が出来ないのは寂しいが、皆でテレビを見たりするのはなんだか楽しそうだな、と思った。

他にもパートナーから医師へ「投薬治療以外にも何かした方がいいのか」と質問があったが、「カウンセリングなどは保険適用外だから高くつきますしねぇ…」となんとも言えない返事を貰っていた。
このあたりは私の通っている精神科の主治医も同じことを言っていたので、なんとも言えないのだろう。

そんな具合で精神病棟への入院はせず、そのまま帰宅ということになった。

帰宅後

疲れたのでまずは寝た。
夜に起き上がり、パートナーと少しずつ会話をして状態をすり合わせ、少し元気になりシャワーを浴びてまた寝た。

パートナーは鬱病について色々と本を読んだり調べてくれていて、理解があるしとても優しい。
久しぶりに安心して眠れたが、やはり悪夢とどエロい夢を見た。何で?

翌日は朝起きてテレビを見たり、スマホも触れるくらいに徐々に回復してきて、今この文章を打っている。

最後に 今の気持ち

「もう死のうとしないか?」と聞かれると、首を縦に振れない。
でも今回、結構苦しみを味わって、楽に死ねないんだということが分かったのと、小並だが家族に迷惑と心配を掛けてしまったので、勢いでまたやることは無いかな、と何となく思っている。

「若い頃から続いているなら希死念慮は無くならない」と医師からもはっきり言われた。
確かにずっと脳の隅にこびりついて剥がれない、でも人間皆当たり前なんじゃないの?と思っているこの感情。
ずっとあるにせよ、大小の波はあり、鬱病になってから確実にその波が大きくなっている。
投薬治療を続けて、のんびり生きて、鬱病が薄くなってくれば、以前のように希死念慮が薄い状態でまた人生を歩めるのかな、と、今はそれを小さな希望として生きてみようと思っている。

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