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昭和38年のてるてる坊主【てるてるmemo#15】


1、描かれたてるてる坊主5点

 いまから60年前にあたる昭和39年(1964)のてるてる坊主について、以前に紹介しました(★文末に掲載した「昭和39年のてるてる坊主【てるてるmemo#14】」参照)。
 引き続き本稿では、その前年、昭和38年のてるてる坊主に目を凝らしてみましょう。わたしの管見が及んだ、てるてる坊主が登場する資料を、ジャンルを問わずに対象とします。随時、前年の昭和39年の事例とも比較しながら、検討を進めていきましょう。

 まずは、絵のある資料から。翌昭和39年には10点を数えましたが、昭和38年は5点と少なめです(★「昭和38年(1963年)のてるてる坊主(てるてる坊主図録Ver.3.2)」、および、図1と表1参照)。

 検討の切り口とするのは「目鼻の有無」「文字の有無」「設置場所」の3点です。第一に目鼻の有無をめぐって。絵のある資料5点のうち、眉や目・鼻・口など、顔のパーツのいずれかがあるものは3点(①④⑤)。残る2点(②③)は目鼻がないのっぺらぼうです。
 翌昭和39年には目鼻があるものが10点中7点を占めており、3点ののっぺらぼうよりもだいぶ優勢でした。いっぽう、この昭和38年には、目鼻のあるものとのっぺらぼうのものが、数の上ではさほど変わりません。

 第二に文字の有無をめぐって。翌昭和39年には、文字の書き込まれたてるてる坊主はひとつも見られませんでした。いっぽう、昭和38年で注目したいのが資料①。衣の部分に拙い字で「てる〳〵」と書いてあります。「る」の最後の丸みが足りておらず、ひょっとすると「てろ〳〵」かもしれません(同じ音の繰り返しをあらわす「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)。
このように、てるてる坊主の衣の部分に文字を書き入れるのは、近世・近代(江戸時代から明治・大正期を経て昭和前期まで)を通じて、しばしば見られた作法です(★詳しくは「【てるてる坊主動画#4】てるてる坊主に文字を書くこと―近世・近代編—」参照)。

 第三に設置場所をめぐって。翌昭和39年には、軒・格子・窓辺など建物の周辺部に5点が見られ、木の3点よりも少し優勢でした。いっぽう昭和38年には、設置場所が明らかなのは3点。その内訳は窓辺(③)・木(①)・傘(④)とさまざまです。

 てるてる坊主が描かれた5点の資料から読み取れる情報をもとに、昭和38年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては絵のない文字資料にも目を向けてみましょう(★後掲の表2参照)。なお、文字資料においては「目鼻の有無」や「文字の有無」に言及したものは見られません。そこで、「姿かたち」「設置場所」「作るきっかけ」「お礼と罰」などを切り口とします。

2、衣の真ん中から頭を出す

 はじめに姿かたちをめぐって。注目したいのは社会学者・石川実(1937-2021)が記した「“物ごとの最初”ものがたり―洋服、和服、紡織機、埴輪」(資料⑰)。これは業界誌『貿易クレームと仲裁』10巻12号に寄せられた一文です。そのなかの「初期の日本服」と題された一節において、「魏志倭人伝」の記述に基づいた次のような説明が見られます(傍点は引用者)[『貿易クレームと仲裁』1963:37頁]。

3世紀頃の日本人の服装は実に奇妙なものであったらしい。男の服装は幅の広い裂(キレ)を縫わずに、これを坊さんのケサか、マントのように簡単にかけていたものらしい。また女は子供が作るテルテル坊主●●●●●●のような着物というか、或はホオズキの皮をむいたような形である一枚の裂(キレ)の真中に穴をあけ、これをすっぽり頭からかぶって着ていたというのだ。

 引用した箇所のはじめに「3世紀頃の日本人」とあります。しかしながら、「日本」という国号が定まって「日本人」が誕生したのは、大宝律令が公布された大宝元年(701)のこと。それ以前には日本国も日本人も存在しません。ここで石川が「3世紀頃の日本人」と呼んでいるのは、当時の日本列島に暮らしていた人たちと捉えておきましょう。
 そのころの女性たちの服装を説明するのに、石川は「テルテル坊主のような着物」という表現を用いています。それは「ホオズキの皮をむいたような形」でもあり、すなわち、1枚の大きな布を頭からすっぽりとかぶるように着て、布の中ほどに開けた穴から頭を出していたといいます。いわゆる貫頭衣かんとういであり、雨を除けるポンチョを羽織ったような姿を想像すればよいのでしょう。
 前掲したような、描かれたてるてる坊主(資料①~⑤)の姿を見ると、頭を包んだ紙か布が首の部分で絞られ、そのまま衣へと続いています。言い換えれば、頭のてっぺんから衣の裾まで1枚の紙か布でつながっている構造です。それは、石川が言うような「一枚の裂(キレ)の真中に穴をあけ……」という構造とは異なります。

 ただし、石川が言うような、布に開けた穴から頭を出すかたちのてるてる坊主も現に存在しました。たとえば、この翌年(昭和39年=1964)に発行された児童向け雑誌には、貫頭衣を彷彿とさせる衣を着たてるてる坊主が見られます。童謡「てるてる坊主」の挿絵として描かれたものです(★図2参照)。

 実は、かつてのてるてる坊主はこのような衣を着た姿が主流でした。とりわけ、江戸時代から明治・大正期を経て昭和30年(1955)ごろまでのあいだ、てるてる坊主は着物を着て、ときには帯を締めているのが一般的でした(★詳しくは後掲の「【てるてる坊主動画#2】忘れられたてるてる坊主 ―かつて見られた着物姿をめぐって―」参照)。
 いっぽう、昨今のてるてる坊主はもっぱら、資料①~⑤のような、裾をひらひらとさせたスカートのような姿をしています。ひょっとすると、本稿で注目した「貫頭衣のてるてる坊主」は、かつての帯を締めた「着物姿」から昨今のような「スカート姿」へと移りかわる、その過渡期に位置づけられるかたちなのかもしれません。

3、建物の周辺部・木・その他

 次に設置場所をめぐって。先述のように、絵のある資料3点においては、窓辺(③)・木(①)・傘(④)に吊るされていました。
 絵のない資料も含めてみると、建物の周辺部には8点見られます。内訳は軒に5点(⑧⑫⑭⑰⑱)と窓辺に3点(③⑥⑨)。いっぽう、木には5点見られます。内訳は庭木が2点(①⑦)、「教室の前」(⑪)や校庭(⑲)といった学校の木も2点。あるいは、具体的に樹種が竹と明記されている事例も1点(⑮)見られます(★表3参照)。

 まとめてみると、8点見られる建物の周辺部のほうが、5点見られる木よりも少し優勢です。先述したように、翌昭和39年も建物の周辺部に5点が見られ、木の3点よりも少し優勢でした。同じような傾向が続いていることを、ここでは確認しておきましょう。

4、遠足・運動会・その他

 てるてる坊主を作るきっかけとして目立つのは学校行事。遠足が4点(⑥⑦⑮⑱)、運動会が2点(①⑳)見られます。
 運動会をスケールアップしたようなのがオリンピック。この昭和38年は、翌年に初めての東京オリンピック開催を控えています。それに向けて出版されたのが『オリンピック競技の英語』(資料⑲)。著者は毎日新聞社に当時勤務していた宇野尚志(1935-)です。その「はしがき」に次のように記されています[宇野1963:はしがき]。

今回の東京大会では(ママ)めてhost countryの立場にたつわけである。しかも、これがアジアにおける最初のオリンピックということになる……(中略)……国民一同いよいよ明日が開会式という日には、軒先にテルテル坊主でもつるす程の心のゆとりを持っていたいものである。

 また、この年には日本で何十年に一度という皆既日蝕が観測されました。空が雲に覆われてしまわないよう、天文学者たちが望遠鏡の一端にてるてる坊主を吊るす光景が見られたといいます(資料⑯)。この件についてはあとでもう一度詳しく触れます。

 遠足を控えて作られたてるてる坊主のなかでも、とりわけ注目しておきたいのが資料⑥の『ぼくらは負けない』。「感動実話」という副題をもつ、子ども向けに書かれた一冊です。作者は小西茂木(1908-)。「望郷が丘の歌」と題された一節に次のような場面があります[小西1963:64頁]。

金曜日きんようびに、良太郎りょうたろうくんは園内えんない売店ばいてんで、キャラメルや、チョコレートをった。ほかのものも、おもいおもいに、おやつをいこんだ。
午後ごごになると、少女寮しょうじょりょうのまどに、しろ人形にんぎょうのようなものが、四つも五つもつるされた。
なんだろうと、良太郎りょうたろうくんは、まどからのぞいてみた。
「へえ、てるてるぼうずか。」
……(以下略)

 良太郎くんがお菓子を買い込んだ売店があったり、窓にてるてる坊主が吊るされた少女寮があったりするこの場所は、国立療養所多磨全生園ぜんしょうえん(東京都東村山市)。ハンセン病の患者や快復者たちが暮らすハンセン病療養所のひとつです。当時はまだ「らい予防法」が存続していたため、ハンセン病の患者たちは家族のもとから強制的に離され、各地の療養所へと隔離されていました。
 そうした隔離生活を送るなか、療養所の行事である遠足はめったにない外出の機会です。遠足当日が好天に恵まれるよう、少女寮の窓に4つも5つも吊るされたてるてる坊主。そこには、療養生活を余儀なくされた女の子たちの切実な祈りが込められていたはずです。

5、迷信は科学・哲学の結晶

 先に少し触れた日蝕の際のてるてる坊主について記しているのは心理学者の大槻憲二(1891-1977)。心理学の専門誌『精神分析』21巻10号に寄せた論考で、次のように記しています(資料⑯)[『精神分析』1963:11頁]。

去る七月廿一日、日蝕観測のために北海道の網走、根室、樽前山に出かけた天文学者たちが、その日、その刻の好天気を祈つて、テルテル坊主の紙人形を大望遠鏡の一端にぶら下げているのをテレビで見て、私は苦笑したものであつた。自称科学者たちも、なかなかの迷信家、又は迷信利用家であることを可憐に思つたことであつた。

 この年の7月21日の明けがた、北海道の東部一帯で皆既日蝕が観測されました。好天に恵まれるよう、先述のように、現地では天文学者たちが大きな望遠鏡の一端にてるてる坊主を吊るしていたといいます。めったにない天体ショーを無事に観測できるよう、天文学者たちは藁にもすがる思いだったことでしょう。

 著者の大槻は、そういった光景をテレビで見て思わず苦笑いしたと記しています。もとより、この論考において大槻は、決して迷信を軽んじているわけではありません。むしろ、迷信を軽んじる昨今の風潮に警鐘を鳴らしています。大槻によれば、部外者には迷信と映るものであっても、当事者たちにとってそれは「科学であり、哲学であり、また宗教、道徳、芸術でもあつたのだ」といいます。
 そして、迷信のもつ「存外一応合理的な面、論理的思考法」に注意を促しています。天文学者たちがてるてる坊主を吊るしていた光景をめぐっては、「これ等は現代科学の無力と共に、昔の迷信の心理的合理性への承認を端的に告白しているものであると云つてよかろう」というのが大槻の主張です[『精神分析』1963:10-11頁]。

 この年の皆既日蝕の際に限らず、天体ショーを控えて好天を願い、観測所や天文台でてるてる坊主が作られる例はしばしば見られます。たとえば、すばる望遠鏡を有する国立天文台ハワイ観測所のWEBページをのぞいてみると、施設内の梁にてるてる坊主が密集して吊るされている写真が目を引きます(★図3参照)。

6、お礼もしくは罰

 続いては、てるてる坊主へのお礼もしくは罰をめぐって。本稿で注目した資料のなかで、この点に唯一言及しているのが、小説家・原田種夫(1901-89)の『明治少年風俗誌』(資料⑦)。
 明治34年生まれの原田が春吉(現在の福岡市中央区)で過ごした、幼少期の思い出をつづっています。そのなかの「てるてる坊主」と題した一文に見られるのが次のような記述[原田1963:74頁]。

あすは遠足だ、ときまると、みんな嬉しくて、まったく落ちつきをうしなった。かえるとすぐに、私は、てるてる坊主をこさえて庭の木の枝にぶら下げた。……(中略)……もし、明日天気になれば、てるてる坊主に、お茶とお菓子を供えるし、もし、雨が降ったら、きたない溝の中にほうりこんでしまうのである。

 願いがかなったらお茶とお菓子を供え、かなわなかったら汚い溝へ放り込んでしまうそうです。繰り返しますが、明治期の終わりごろに福岡あたりで見られた光景です。
 わたしの管見が及んだ主な辞書に限ってみても、てるてる坊主へのお礼として、かつては神酒を供えたあと川に流したことが説明されています。明治末期から大正期を経て、昭和中期までの辞書に散見できる作法です((★詳しくは「「てるてる坊主=形代」説・再考【てるてる坊主考note#27】」参照)。

 幼少時の原田がてるてる坊主へのお礼として供えようとしたお茶とお菓子は、神酒に代わるものといえるでしょう。いっぽう、「雨が降ったら、きたない溝の中にほうりこんでしまう」というのは、願いがかなった場合にきれいな川に流して労う作法と対になる、逆の発想です。
 願いがかなわなかった場合に、罰として汚い溝に流すというのは、なかなか見られない作法です。ただし類例として、明治45年(1912)に発行された『お伽歌劇』に似たような事例が見られます。
 同書は童話作家・巌谷いわや小波さざなみ(1870-1933)による童話集。遠足を翌日に控えて兄妹がてるてる坊主を作って願いを込める場面が次のように描かれています[巌谷1912:297-298頁]。

「テレ〳〵坊主ぼうず! テレ坊主ぼうず
  あしたわたのしい 遠足日えんそくび
 あめでわみんなが こまるから、
  い〳〵天気てんきに しておくれ!
……(中略)……
 それともやつぱりるならば、
  きたないみぞえと んで、
 うえからいしをば ぶつけるよ
  いやならたのみを いとくれ!」

 願いがかなわず雨だった場合には、汚い溝へ投げ込んで石をぶつけるといいます。もとより、この『お伽歌劇』はフィクション作品であり、こうした作法が実際に見られたのかどうかは定かではありません。

7、童謡あるいはCMソング

 日本温泉協会の業界誌『温泉』31巻6号に掲載されているのが、浅原六朗(1895-1977)の短文「温泉ところどころ」。浅原は鏡村というペンネームで童謡「てるてる坊主」を作詞しています。中山晋平(1887-1952)が曲をつけて、童謡「てるてる坊主」は大正10年(1921)に発表されました。
 浅原と中山はともに信州の出身。浅原が松本で見た光景から、「てるてる坊主」の詩が生まれたといいます。その松本に童謡「てるてる坊主」の碑が建った日のことを、浅原は次のように書きとめています[『温泉』1963:20-21頁]。

一昨年五月、信州松本の中央公園に私の童謡、てるてる坊主の碑が、今は亡くなった平凡社の下中弥三郎さん、松本市長の降旗徳弥さん、詩人の西条八十さん、実業之日本社社長増田義彦氏などの後援で建てられた。五月五日子供の日に、降旗市長をはじめ千人以上の子供たちがあつまって、にぎやかな除幕式をしてくれ、私は妻、子供たち、孫など都合七人、それに教え子も何人かはせ参じてくれた。

 「一昨年」とあるので、松本に碑が建てられたのは昭和36年(1961)のこと。この短文が発表された昭和38年には、浅原の故郷である池田町(長野県北安曇郡)にも童謡「てるてる坊主」の碑が建てられました。浅原の甥・長谷川級雄(生没年不詳)がその除幕に立ち会い、短歌をのこしています(★詳しくは文末に掲載した「昭和39年のてるてる坊主【てるてるmemo#13】」参照)。

 てるてる坊主は童謡に唄われただけでなく、CMソングにも使われました。『広告年鑑』に「シンギングコマーシャル」が列挙されており、そのなかのひとつにてるてる坊主が登場しています(資料⑬)[『広告年鑑』1963:400頁]。

てるてる坊主が 夢を見た
お空にノーシン のませたら
いつもお天気 日本晴 ノーシン ノーシン
「頭痛にノーシン」 よくきくね
……(以下略)……

 荒川長太郎商店(現在のアラクス)から発売されている解熱鎮痛剤「ノーシン」のCMソングです。作詞は珍田安雄(生没年不詳)、作曲は市川昭介(1933-2006)。
 ぐずついた空模様を日本晴れに変えるてるてる坊主の効果と、頭痛をすっきり治す「ノーシン」の効果が重ね合わせにされています。実際に、気圧が低下して天気が悪くなることで、頭痛を感じる人は多くいます。わたしもそうです。いまから60年あまり前のCMですが、この「ノーシン」の唄をいまでも覚えているかたはいらっしゃるでしょうか。

 本稿で注目した昭和38年のてるてる坊主を含め、もっと長い目で見た昭和30年代全般のてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。


参考文献

【表1と表2に関わるもの】(発行年はいずれも昭和38年(1963)。丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
①与田準一〔著〕風間四郎〔絵〕『ちくたくてくさん』、ポプラ社(「うんどうかい」)
②中山茂・落合聡三郎・菱沼太郎〔編〕『新しい子どもの劇遊び』、日本児童福祉協会(「やさしい人形の劇あそび」)
③『読切倶楽部』12(7)、三世社(くらもと勝巳「風流お伽ばなし」)
④『養鶏世界』272、養鶏世界社(森比呂志「漫画の鶏舎」)
⑤東京都教育研究所〔編〕『教育じほう』186、東京都新教育研究会(千村洋一朗「「てるてるぼうず」のこと」)
⑥小西茂木〔著〕斎藤寿夫〔絵〕『ぼくらは負けない : 感動実話』、少年画報社(「望郷が丘の歌」)
⑦原田種夫『明治少年風俗誌』、ジャパン・コンサルタント・ルーム
⑧『鹿火屋』484、鹿火屋会(諸橋和子)
⑨『原始林 : 短歌雑誌』18(9)、原始林社(安彦桂子)
⑩『温泉』31(6)、日本温泉協会(浅原六朗「温泉ところどころ」)
⑪『九大医報』33(2)、九大医報編集部(田中正敏「九大祭を終えて」)
⑫『若い広場』195、若い広場社(丘和美「雨降り花嫁さん」)
⑬『広告年鑑』1963年、万年社(「シンギングコマーシヤル」〈珍田安雄〔作詞〕市川昭介〔作曲〕「ノーシン」〉)
⑭尾留川房子『無象の塔 : 尾留川房子歌集』、甲鳥書林
⑮日本ビクター株式会社販売推進部〔編〕『音に生きる : ビクターの栄光』、ダイヤモンド社(奥野信太郎「竹声」)
⑯『精神分析』21(10)、東京精神分析学研究所(大槻憲二「現代科学思想は悔い改めねばならぬ」)
⑰『貿易クレームと仲裁』10(12)、国際商事仲裁協会(石川実「“物ごとの最初”ものがたり―洋服、和服、紡織機、埴輪」)
⑱玉川正一『セールス話術30講』、星書房(「お天気の話題」)
⑲宇野尚志『オリンピック競技の英語』、研究社出版
⑳『新墾 : 短歌雑誌』33(12)、歌誌新墾発行所(塚原善記)

【そのほかの参考文献】
・巌谷小波『お伽歌劇』(小波お伽文庫2)、博文館、1912年
・『めばえ』7(3)、小学館、1964年(岸田はるみ〔絵〕「てるてるぼうず」)

【参照したWEBページ】
・「天文学者のひみつ―ハワイ観測所」
https://subarutelescope.org/jp/Kids/kidsastronomer/astronomer.html

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