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人形送りのなかのてるてる坊主【てるてる坊主考note#34】


はじめに

 民俗学者・柳田国男(1875-1962)がのこした膨大な著作のなかで、てるてる坊主に触れたものは以下の3点(発表年の順)。

・大正3~4年(1914~15)「毛坊主考」(のちに定本第9巻に所収)
・昭和4年(1929)「人形とオシラ神」(同12巻)
・昭和11年(1936)「テルテルバウズについて」(同31巻)

 本稿で注目するのは1つめの「毛坊主考」。日本列島各地に見られた人形送りの風習のひとつとして、てるてる坊主が位置づけられています。
 残る2点については、かつて検討したことがあります。2つめの「人形とオシラ神」では、神が宿りやすいかたちをしたものの一例として、瓢箪ひょうたんのような杓子しゃくしを使ったてるてる坊主が紹介されています(★後掲の「杓子のてるてる坊主【てるてるmemo#13】」参照)。
 3つめの「テルテルバウズについて」は題名のとおり、てるてる坊主に焦点を絞った小論で、先述した「毛坊主考」での考察が深められています。共同祈願であった人形送りの行事をもととして、てるてる坊主が個人的なまじないとして派生した過程がたどられています(★後掲の「形代なのか本当か 【てるてる坊主考note #1】」参照)。
 3つの論考いずれも、のちに編まれた『定本 柳田国男集』に収められています。ただし、定本の総索引(別巻5に所収)で「照々坊主」を引くと、拾われているのは「毛坊主考」と「テルテルバウズについて」のみ。「人形とオシラ神」は索引から漏れているので注意が必要です[柳田1971:323頁]。

1、虫送りにおける「金鼓の力」

 さて、柳田の「毛坊主考」は雑誌『郷土研究』誌上に大正3年(1914)から翌4年にかけて連載されました[柳田1914-15]。柳田の意思によって単行本化されることはありませんでしたが、のちの定本や全集に収められています。本稿では読みやすさを考慮して、ちくま文庫の『柳田国男集』11(1990年)を参照します[柳田1990]。
 ところで、柳田の論考の題名に掲げられている「毛坊主」とは何か。民俗学者・赤坂憲雄(1953-)によれば、「毛坊主」とは柳田が設定した包括概念です。「公には僧侶として認められない有髪・妻帯の世俗の宗教者、とりあえずはそれが毛坊主である」といい、その具体像が次のように示されています[赤坂2013:139頁]。

柳田がヒジリ=毛坊主という呼称のもとにおさめようとしたのは、鉦打かねうち・鉢屋・茶筅ちゃせん・ササラ・説教・琵琶法師・地者じしゃ願人がんにん、そしてしゅくの者・餌取えとり・歌舞伎の輩といった多種多様な人々である。

 そうした人びとを赤坂は、「非農業的な生業にしたがう多種多様な、中世には職人の名において一括された人々」とも言い換えています。そして、柳田が着目したのは「それらの人々が潜在的に帯びていた宗教者の貌」。「かれらが仏法の因縁からいつしか離れ、常民とは異なった職業集団を作らねばならなかった成り行き」を明らかにすべく、論が展開されています。それは同時に、「被差別部落の発生を辿る道行きにほかならなかった」と赤坂は指摘しています[赤坂2013:137、139、147、149頁]。

 全11章からなる「毛坊主考」のなかで、てるてる坊主が登場するのは第4章「ネブタ流し」(上記の★表1参照)。その前に置かれた「実盛塚」の章では、害虫除けの行事である虫送りが紹介されています。虫の害を悪霊のしわざと見なし、その悪霊を藁人形に託して、鉦や太鼓で囃し唱えごとをしながら村の境へと送り出す行事です。
 虫送りの行事には、西日本を中心として、しばしば平安時代末期の武将・斉藤実盛(1111-83)の説話が結びついています。虫送りの藁人形をサネモリと呼び、行事そのものもサネモリ祭りと呼ぶことがあります。しかしながら、虫送りに実盛の説話が付会されたのは後世のことであろう、と柳田は述べています。
 さらに、虫送りには念仏を伴うこともあるが、それもやはり後世の付会であろうといいます。あくまでも、もともとあったのは、災厄をもたらす悪霊を人形に託し、鉦や太鼓で囃しながら村境へと送り出すという発想。それを柳田は「金鼓こんくの力」と名づけています。

2、天候不順に際しての人形送り

 第3章「実盛塚」を承けた「ネブタ流し」の章の記述に、本稿では目を凝らしてみましょう。その冒頭部分に「いわゆる金鼓の行事が念仏供養とは全然独立して、おそらくはそれよりもずっと古くから、わがくにに存在したらしい」という見通しが示されています[柳田1990:449頁]。
 そして、虫送りだけでなく、疫病神送り・雨乞い・雨風祭りなどへと視野を広げながら、そうした「金鼓の行事」が仏教以前に根ざした古くからの風習であることを明かすべく、いくつもの事例が列挙されていきます。その過程で顔を覗かせるのがてるてる坊主[柳田1990:452頁]。

近世の田舎では風雨の害をはらうために人形を送る例もあった。照々坊主てるてるぼうずの風習もまたこれである。これと反対に阿波の吉野川では雨乞あまごいのためにも人形を用いた。しかしこれらは稀な方の例で、全国にわたって最も多いのは疫病神を送る人形である。

 天候不順に際しての人形送りとして、対になる2つのタイプが示されています。風雨の害を払うタイプと、それとは反対に雨を乞うタイプ。いずれにせよ、天候不順に際して人形が作られるのは珍しいほうで、全国的に多く見られるのは疫病神を送る人形なのだといいます。
 そうしたなか、天候不順に際しての人形送り2タイプのうち、前者の風雨の害を払うタイプの一例として挙げられているのがてるてる坊主。「近世の田舎」で「風雨の害を攘うために人形を送る例」の同類として柳田はてるてる坊主を捉えています(★下記の表2参照)。

 ともあれ、柳田の「毛坊主考」において、てるてる坊主が登場するのは、この1か所だけ。てるてる坊主に焦点をあてた柳田のより深い考察は、先述した「テルテルバウズについて」が著される22年後まで待たなければなりません。

3、お盆の季節に集中する人形送り

 てるてる坊主が一瞬だけ顔を覗かせたあと、「毛坊主考」の記述はさまざまな人形送りの諸相へと展開していきます。柳田が注意を促しているのが、人形送りのおこなわれるタイミング[柳田1990:454頁]。

虫送り、疫神送り、雨乞い、風祭等に際して臨時に行うところの鉦太鼓の踊り、ことには村の境まで踊って行くと隣村からも踊り返すという掛踊りの風習が、盆を期として恒例的にも行われる……(以下略)

 人形送りの行事は、鉦や太鼓で囃しながらの踊りを伴うことがあり、また、ときには境界付近で隣村の人たちと張り合って、送り出すべき災厄を押し付け合うような光景も見られたことが示唆されています。
 ここで注目しておきたいのは、そうした人形送りには臨時におこなわれるケースのほか、年中行事のように決まった期日に恒例でおこなわれるケースもある点。そして、後者の恒例行事としての人形送りは、お盆の時期を択んでおこなわれるといいます。その理由を柳田は次のように推測しています[柳田1990:453頁]。

夏と秋との境は昔から悪い病が起りやすかったと見えて、旧暦の六、七、八月、わけても七月にこの祭が多かった。農村では作物に対する風の害も考えたか知らぬが、主たる動機はやはり流行病の怖畏いふであろうと思う。

 疫病や風雨の害などが多発するのは夏のころ。とりわけ、旧盆のシーズンを含む7月に集中する傾向があります。そこで、そうした災厄を払拭すべく、お盆の時期の恒例行事として人形送りが多くおこなわれるという指摘です。

4、盆行事における災厄の祀り棄て

 そして、柳田は盆行事へと話を展開していきます。盆行事の主たる目的は、死者供養ではなく災厄を祀り棄てることにあるというのです[柳田1990:453-454頁]。

七月盂蘭盆うらぼん聖霊しょうりょう送りはすなわち一つの御霊祭ごりょうまつりであったことは疑いがない。近世の考えからいうと、秋の風がそよそよと吹けば亡人なきひとの事が思い出され、追慕のあまり魂迎えをすると解釈する方が通用はよろしいけれども、迎えよりは送りの方がはるかに大袈裟おおげさで系統立っているのみならず、何のために迎えたか分らぬほど送る作法が厳重である。またいわゆる新盆の家の前で盆踊りをしてあるくということも、幽霊祭却の一形式としなければ説明ができぬ。

 盆の送りの行事である精霊しょうりょう送り。それは「幽霊祭却の一形式」であり、きっと御霊祭のひとつに違いない、と柳田はいいます。御霊祭とは祟りをなす悪霊を慰め鎮める祭りのこと。すなわち、そこには先述した「金鼓の行事」と同じような意味が込められていると考えていいでしょう。
 盆行事において、迎える作法よりも送る作法のほうが、はるかに系統だっていて厳重である点。および、新盆の家々を回って盆踊りをして歩く点。それらを根拠として、盆行事の本来の目的は「金鼓の行事」と同じく、災厄をもたらす悪霊の祀り棄てであったことが説かれています。
 「金鼓の行事」と盆行事とのあいだに共通点を見出そうとする、柳田の大胆な構想。その目するところを、先にも揚げた赤坂憲雄は次のように整理しています[赤坂1994b:151頁]。

盂蘭盆会の精霊送りが“幽霊祭却の一形式”であったように、念仏の有無は別として、虫送り・疫神送り・雨乞い・雨風祭りなどにおこなう鉦太鼓の踊り、掛け踊りの風習もまた、ひとつの悪霊祀り棄ての形式であった。しかも、それは仏教側の解釈がいかなるものであれ、古くからの、いわば仏教以前の祭祀・習俗であるといったところに、柳田の理解の眼目はあるだろうか。

 もとより、こうした柳田の考察をめぐって、赤坂は「それがはたして論証の体をなしているか否かの判断は、ここでは措く」と、慎重な態度を示しています[赤坂1994:154頁]。
 「金鼓の行事」とお盆の精霊送りがともに悪霊祀り棄ての形式のひとつであることを根拠として、「金鼓の行事」が仏教以前からの風習であると説く柳田。その論立ての妥当性を判断する力は、むろんわたしにもありません。本稿では、人形送りとしてのてるてる坊主の位置づけを把握すべく、柳田の論にいましばらく耳を傾けてみましょう。

5、七夕における災厄除け

 柳田によれば、盆行事に加えて七夕もまた、本来は災厄を祀り棄てる行事であったといいます。7月の七夕と旧盆は、時期的にもたいへん近接しています。柳田が七夕について述べた以下の文中で、はじめのほうに見える「中元」とは、お盆のことを指します[柳田1990:454頁]。

七夕しちせきと中元とは通例は何らの関係がないもののごとく考えられているが、七日は村によっては七日盆ともこれを称え、明らかに二つの記念日の重複を推想し得るのみならず、よく見るとこの星祭には天上の恋人に対する同情のほかに、道家どうけの祭星法にあるような攘災じょうさいの意味が加わっている。

 七夕は織姫と彦星を祀る星祭りであるとともに、災厄除けの意味も込められた行事であるといいます。七夕が本来は「金鼓の行事」と同じく災厄除けであったとする根拠は2つ。1つめは竹を立てる意味をめぐって。昨今は短冊に願いごとを書いて竹に吊るしますが、本来は竹2本を立てて注連縄を付けたそうです。縄にぶら下げるのは短冊ではなく、字を書いていない切り紙。いまでも、家を建てる前の地鎮祭でよく似た光景が見られます。
 根拠の2つめは、お供えのしかたをめぐって。ところによっては、先述した注連縄に畑で採れた旬の作物をいろいろと引っかけるといいます。「七夕たなばた様は初物がお好きという評判があるが、その形式がいかにも聖霊棚しょうりょうだなの供物とよく似ている」と柳田は指摘しています[柳田1990:454頁]。お盆にも精霊棚を設けて両端に縄を渡し、そこに旬の作物を引っかける例が見られます。本来は災厄除けであった七夕とお盆には、お供えのしかたにも共通点があるというのです。

6、ネブタ流しも疫病神送りの行事

 さらに柳田は、ネブタ流しの行事もまた、本来は災厄を祀り棄てる疫病神送りだったのではないかと述べています。ネブタ流しは旧暦7月7日の七夕におこなわれる行事。青森県内の夏祭りがとくに有名で、人形を描いた大きな山車灯籠が巡行しますが、そうしたかたちは昨今のもの。柳田は明治39年(1906)に青森で見たネブタ流しの様子を次のように綴っています[柳田1990:449-450頁]。

八月下旬、津軽海峡を渡らんとして青森で夜半の汽船を待っていると、あたかも旧暦の盆のことで、その夜この町のネブタ流しがあった。偉大なる紙張の人形の西洋顔料で彩ったのを長い竿の尖端に立て、その張子の中には火をともして、市街の電線を邪魔にしつつ諸方からやって来る……(中略)……十二時過ぎに船が港を出てからふり返って見ると、わァわァという声はまだ聞え、いつまでも町の空が明るかった。しまいにはその人形の燈籠とうろうを海へ投げ込むのだと聞いた。

 柳田が見たネブタ流しの灯籠は山車に設置するのではなく、長い竿の先に付けて手に持つものだったようです。こうした見聞が8年後に「毛坊主考」にまとめられますが、その執筆当時(大正3年=1914)、ネブタ流しは青森県内だけでなく日本列島各地で伝承される行事でした。
 「普通の順序をもって推すと、ただの燈籠から人形の燈籠に変じたもので、津軽人の後世の思附きのごとく解する人が多かろう」。しかし、そうした見かたは誤りで、「津軽その他の佞武太ねぶたが聖霊送りの燈籠と通例これに伴う犠牲いけにえ人形ひとがたとの合体したものであるらしいこと」を柳田は指摘しています。そして、ネブタ流しの本来の目的については、「およそ人の身に属する災害すなわち流行病などの御霊をはらうものと見ておこう」と述べています[柳田1990:452、457、頁]。
 柳田の論を整理してみましょう。ネブタ流しで巡行する、人形のかたちをした張り子の灯籠。それは、ただの灯籠から人形のかたちをした灯籠へと進化したものではない。もともとは、人びとが流行病を悪霊のしわざと見なし、それを託して祀り棄てるための「犠牲の人形」であった。そこに、先述したような同じく災厄除けとしての盆行事に用いる「聖霊送りの燈籠」が合体することで、ネブタ流し特有の張り子灯籠が誕生しました。ネブタ流しはやはり人形送りのひとつだ、というのが柳田の主張です。

 柳田の論はこのあと、「ネブタ」という名称をめぐって思わぬほうへと展開していきます。疫病神送りに用いられる「犠牲の人形」の役は、ひょっとすると大昔は生身の人間に課せられていたのではないか、というのです[柳田1990:452頁]。

津軽のネブタは以前から佞武太ねいぶたとも佞夫多とも書きあるいは佞人という漢字を宛てたものもある。佞人はネイビトとでも読んだものか。とにかくにその流す物を人として視た名称であって、単に燈籠の意匠とは考えておらぬ証拠である。

 災厄を一身に引き受けて流される佞人ネイビト。その人が「催眠状態に落ちているのを名づけてネムタまたはネブトなどと称えたのではあるまいか」と柳田は推測しています[柳田1990:458頁]。
 〈生身の人間〉から〈犠牲の人形〉へという変遷を示唆した柳田の供犠論。これについては、天候不順の際に責任を負わされるのはいったい誰かという問題と絡めながら、かつて検討を試みました(★詳しくは「天気コントロールの生け贄【てるてる坊主考note#33】」参照)。

おわりに

 柳田が「金鼓の行事」と呼んだ、虫送り・疫病神送り・雨乞い・雨風祭りといった人形送りの行事。そのなかで、てるてる坊主は雨風祭りの一例として位置づけられていました。注目したいのは、数ある人形送りの行事のなかでも、とりわけてるてる坊主がいま、わたしたちに身近な存在として根づいている点。なぜ、てるてる坊主はこれほどまでに老若男女を問わず広く知られ、身近なまじないとして親しまれているのでしょうか。
 わたしたちが普段の暮らしのなかで、個人祈願のために人形を作る機会は、てるてる坊主を措いてほかにはなかなかありません。たとえば虫送りを例にとると、蚊やゴキブリなどの虫除けに人形を作ったりはしません。あるいは疫病神送りを例にとると、風邪を引きそうなとき、もしくは風邪を引いてしまって早く治したいときに、人形を作ったりもしません。
 雨乞いや雨風祭りに関しては、雨が降ってほしいときに個人的に「ふれふれ坊主」を作ったことのある人が、ひょっとするといるかもしれません。それでも、てるてる坊主ほど人口に膾炙しているわけではありません(★詳しくは「なぜ「ふれふれ坊主」はないのか【てるてる坊主考note#30】」参照)。

 人形送りの風習の動向をめぐって、柳田は論考「毛坊主考」を執筆した大正3~4年(1914-15)当時の状況を次のように記しています[柳田1990:453頁]。

この類の人形は今でも田舎には多い。村会議員とか教員とかいう人が悪く言うために、村全体として神送りをし得ぬような処でも、個々の家ではやはり道岐みちわかれへ人形を棄てに行くのみならず、すこし烈しい伝染病の流行になると、古い因習が眼を覚まして往々に鉦太鼓の音を立てる。ただ何のゆえにこうすればいいのかを知った人の少ないのはもちろんである。

 田舎の村会議員や教員などは、人形送りの風習を悪弊と見なして吹聴する。そのため、村全体の共同行事としての人形送りは姿を消しつつある。それでも、各家での行事としては根強く続いているほか、流行病の際には思い出したように盛大におこなわれるといいます。人形送りの行事をめぐって、たとえ村全体の共同行事としては廃れても、規模を縮小して個々の家の行事としては存続している、という柳田の指摘にはたいへん興味をひかれます。
 そうしたなか、てるてる坊主は言うまでもなく個々に作って吊るすもの。大げさではない個人祈願であるという点が、てるてる坊主がいまでも身近な存在として息づいている理由のひとつなのでしょう。
 ただし、前掲した柳田の言を借りれば、「何のゆえにこうすればいいのかを知った人の少ないのはもちろんである」。なぜ、わたしたちは晴れてほしいときに坊主頭の人形を作るのでしょうか。てるてる坊主を知らない、たとえば海外の人にとって、それは奇異な風習に映ることでしょう。はたして、てるてる坊主とは何者なのか。今後も多角的に探っていきたいと思います。

【参考文献】
・赤坂憲雄『柳田国男を読む』、筑摩書房、2013年(初出は『柳田国男の読み方——もうひとつの民俗学は可能か』(ちくま新書)、筑摩書房、1994年a)
・赤坂憲雄『漂泊の精神史 ——柳田国男の発生』、小学館、1994年b(初出は「柳田国男の発生 漂泊の精神史」第4章〈『創造の世界』、小学館〉)
・柳田国男「毛坊主考」(『郷土研究』、1914-15年)
・柳田国男「人形とオシラ神」(『民俗芸術』第2巻第4号、民俗芸術の会、1929年。のちに『大白神考』柳田国男先生著作集第11冊〈実業之日本社、1951年〉に所収)
・柳田国男「テルテルバウズについて」(『岩波講座国語教育 小学国語読本綜合研究』巻2第1冊、岩波書店、1936年)
・柳田国男『定本 柳田国男集』別巻5 総索引/書誌/年譜、筑摩書房、1971年
・柳田国男『柳田国男全集』11(ちくま文庫)、筑摩書房、1990年


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