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【歴史概要49】甲午農民戦争・日清戦争・戊戌の変法

①朝鮮では開国後に穀物の輸出が増えて農民の生活は圧迫した。排日気運が高まったがこの時期に朝鮮固有の民族宗教である東学が多くの人々の心を掴んだ。

②指導者の全琫準(チョン・ポンジュン)に率いられ朝鮮南部で決起をした。これを甲午農民戦争(東学党の乱)と云う。政府は清にサポートを要請した。これに呼応として日本も動いた。

③農民たちは外国の介入で休戦したが、日本と清は朝鮮の改革を
めぐって対立し交戦状態となった。日清戦争の始まりである。

④日本政府は日本の朝鮮政策に批判的だったイギリスとの友好関係を深めて1894年7月に朝鮮の王宮を占領した。兵士を武装解除して朝鮮の内政改革を始めた。

⑤1894年8月に清国に宣戦布告をした。黄海の海戦から陸上・海上の戦いで勝利をした。

遼東半島の旅順、山東半島の威海衛などを占領した。

⑥1895年に日本は伊藤博文、清は李鴻章をそれぞれ全権代表に
会談した。そして下関条約が結ばれた。ここで清は朝鮮の完全独立を認め朝鮮から撤退した。

⑦遼東半島や台湾、澎湖島などが日本の所有となり2億両(約3億1000万円)の賠償金を支払う約束をした。日本が遼東半島を得たことで極東政策を推進していたロシアを刺激した。

⑧ロシアはイギリス・ドイツとともに半島の返還を要求した。これが三国干渉である。日本はこれを受け入れたためロシアに対する反感が強まっていき後の日露戦争に繋がっていく。

⑨日本は台湾の統治には成功した。

台湾の農民の抵抗は1945年の解放まで断続的に続くが地主や商人など台湾富裕層を取り込んだ。台湾銀行を設立し産業復興をし土地所有を近代化していった。

⑩日清戦争に敗れた清では官僚や知識人を中心として抜本改革を行う気運が高まっていた。

⑪代表となったのは実践を重んじる公羊学派の康有為である。国家体制を抜本的に改めるという変法を唱えた。

日本の明治維新を模範にし保皇立憲をスローガンにして立憲君主体制と議会主義を樹立しようとした。

⑫光緒帝(11代目)はこれを支持した。これは戊戌の変法や変法改革ともいわれる。1898年6月に保守派の大物恭親王奕訢(きょうしんおうえききん)が亡くなった後に改革は始まった。

⑬主導者は光緒帝の叔母の西大后や軍人・政治家の袁世凱であった。光緒帝は専制君主ではなく権限は西大后が持っていた。

康有為は登用以前は危険思想を唱えるとされていた人物であった。登用後も弾劾された。

⑭康有為はポーランド分割の例を挙げながら変法の必要性を説いた。光緒帝は康有為に協力するが、1898年9月には西大后や袁世凱によって光緒帝は幽閉された。康有為などの変法派は失脚した。改革は約100日で失敗した。これが戊戌の政変である。

⑮改革を唱える人々が一定数存在しても保守的な権益勢力が
それを容易に潰した顕著な例である。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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