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【歴史概要26】トルコ革命・エジプト革命・イラク革命

①19世紀以降、西欧諸国の力に圧倒されてきたイスラーム世界ではいかに近代化していくべきかという問題が現実のものとなってきた。オスマン帝国は小アジアでは最先端となる近代改革を行っていたが世俗性は薄かった。

②トルコでは第1次世界大戦後にケマル・パシャがスルターン制やカリフ制を廃止し宗教分離の世俗国家であるトルコ共和国を樹立していた。

このトルコ革命はイスラーム諸国に絶大な影響を及ぼした。

③エジプトは19世紀以来イギリスの支配下にあった。1922年には形式的な独立を果たしたがイギリス駐留軍が存在していた。

④第1次世界大戦後に結成されたワフド党から始まりムスリム同胞団が反発から生まれ、第1次中東戦争(パレスチナ戦争)に敗北したことによってエジプトの歴史が大きく変わっていく事になった。

⑤1952年7月に軍の青年将校たちが自由将校団を結成した。ナギブがクーデターを起こしてファルーク王を追放し共和国を樹立した。これがエジプト革命である。

⑥ナギブは主導権をナセルと争い敗れた。ムスリム同胞団とナギブの関係が取りざたされた事でナセル政権下ではムスリム同胞団は厳しく弾圧される事となった。

⑦ナセルは産業や銀行の国有化をはじめとするアラブ社会主義を実践し、アスワン・ハイダム建設のためスエズ運河の国有化を宣言した。1955年のバンドン会議を主導したナセルはアジア・アフリカ植民地諸国のナショナリズムを勃興させた。第2次中東戦争(スエズ戦争)でナセルは影響力を強めていった。

⑧1958年にバアス党を端緒としてシリアとエジプトはアラブ連合共和国を結成した。しかしナセルのエジプト第1主義傾向に反発して1961年に分離した。第3次中東戦争の敗北で影響力は低下した。1970年にナセルは亡くなりサダトに継承された。

⑨第1次世界大戦後、メソポタミアはイギリスの委任統治領となった。1932年にイギリスの後押しするハーシム家(ムハンマドの曾祖父に始まるアラブ名家)が君臨するイラク王国が樹立された。

⑩アラブ諸国とともに第1次中東戦争に参戦しイスラエルと戦ったが敗れた。エジプト同様にアラブの盟主になる事を目指した。

⑪1955年にはトルコ・パキスタン・イラン・イギリスとともに
反共の集団安全保障体制である中東条約機構(バグダッド条約機構)を結成した。

しかし反イギリスであるエジプトのナセルに批判された。

⑫1958年にエジプトがシリアとアラブ連合共和国を結成するとイラクは王家が同じハーシム家であるヨルダン王国とアラブ連邦を結成して対抗した。ヨルダンをサポートするためにイラクは軍隊を派遣した。

⑬この軍隊は親イギリス政策をとる国王に不満があった。移動途中にバグダッドに入ったときにナセル信奉者であるカーシムが中心者となりクーデターを起こした。ハーシム家は追放されイラク共和国が樹立された。これがイラク革命である。

⑭イラク共和国は中東条約機構から脱退しヨルダンとのアラブ連邦も解体された。1961年にイギリスはクウェートを独立させて対抗した。カーシムはクウェートの併合を主張したので他のアラブ諸国から嫌われた。共産党に傾斜し個人独裁に走ろうとしたためバアス党が1963年にクーデターを起こしカーシムは失脚する。

⑮バアス党はアラブの統一がスローガンであったが社会政策としては産業などの国有化がメインである国家主導型の社会主義的政策を実践した。ここがムスリム同胞団のような伝統教義的なイスラーム主義とは相容れなかった。

⑯バアス党政権は内部対立で9ヵ月で崩壊する。代わってアブドゥッサラーム・アーリフが政権を担うがナセルに接近して国内不満を増大させた。

アブドゥッサラームが事故死した後に兄が権力継承したが1968年にバアス党が再度クーデターを起こし権力を握った。

⑰バアス党の政権下で1979年にサダム・フセインが大統領に就任した。そして隣国イランとの戦争が始まった。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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