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【歴史概要86】ハムラビ法典・メギドの戦い・カディシュの戦い

①「目には目を、歯には歯を」で有名なハムラビ法典は
全部で282の条文からなる。欲望が大きくなると対立や犯罪が
増加するため社会規範である法律は必須である。

②ハムラビ法典はシュメール時代の法典を継承しているが後の諸民族の法典にも影響を与えていった。この碑文はバビロンにあったがペルシア北西部にいたエラム人がバビロンを攻撃した時に戦利品として持っていった。

③1902年にフランスの調査隊に発見されて現在はパリのルーヴル美術館に展示されている。一部に欠損部分があるがこの条文を筆者した文献が発見されていて全文が明らかになっている。

④エジプトは国土そのものが天然の要害であったので異民族の侵入は少なかったが何もなかったわけではない。BC18世紀にはヒクソスという異民族の侵入を受けた。この侵入により馬と戦車、複合弓などの新軍事技術が伝わった。

⑤エジプト新王国時代、第18王朝のころに第6代のファラオであるトトメス3世は義母のハトシェプストの対外消極策を捨ててシリア方面に軍隊を進めた。この時の戦いで有名なものがBC1470年ごろのメギドの戦いである。

⑥この頃にシリアやカナン(パレスチナ)地方の諸勢力をまとめてカナン同盟の盟主になっていたのはカディシュの王と云われている。両者はメギドで戦ってカナン同盟側は7ヵ月の籠城戦の後に降伏してエジプトの支配を受け入れた。

⑦トトメス3世はメギドの戦いを含めて17回の遠征を行ったと云われている。エジプトのナポレオンの異名もある。この時代が古代エジプトの最盛期であった。このメギドの戦いの際にカナン同盟の背後にはミタンニ王国がいたと云われている。

⑧ミタンニ王国はアナトリア(小アジア)から台頭してきた
ヒッタイトに滅ぼされた。

⑨BC14世紀後半にエジプトの第18王朝にアメノフィス4世が君臨した。このファラオが古代世界で一神教革命を行った。

アトン神を信仰して自らも「イクナートン(アトンに愛されし者)」と名乗った。

⑩第19王朝ではエジプトの対外発展は続いた。ラムセス2世はBC1286年ごろ、南下してくるヒッタイトに対して軍を派遣した。シリアの都市カディシュはエジプトの支配から離れて両者の勢力圏の境目の状態になっており両者の戦いが準備された。

⑪ヒッタイトが放ったスパイの言葉を信じたラムセス2世はカディシュに向け軍を進める途中にムワタリの戦車部隊の急襲を受けて軍団は壊滅的な打撃を受けた。

⑫ヒッタイト軍はラムセス2世の野営地を攻撃してラムセス2世は苦戦した。エジプトの支援部隊が撞着してヒッタイト軍を敗走させた。ムワタリも援軍を派遣したが戦いは決定的な勝利のないまま終わった。

⑬ここの時のエジプト軍は神の名前を冠してラー、セト、プタハ、アメンの4軍団から編成されていた。

統一行動をとれなかったのがある部分では敗北だがある部分ではエジプト軍に勝利をもたらした。

⑭カディシュの戦いは成文化された平和条約が結ばれて終結した。エジプト文字ヒエログリフとヒッタイトが使用していたアッカド語の楔形文字とで書かれたものを両方残されている。講和条約の基本的なパターンはここに成立した。

⑮内容は平和についての約束、国境線の規定、相互不可侵の約束である。

BC13世紀はエジプトとヒッタイトが強勢を誇っていた時代であった。

⑯BC13世紀の末は地中海東海岸一帯で海の民といわれる民族の略奪が横行する。エジプトはこの襲撃を防いで捕虜にした海の民を軍団に編成したという記録が残っている。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』関 眞興 日本経済新聞出版社

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