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【歴史のない日本伝統2】武士道

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

今回は武士道の歴史のなさを説明する。

武士道精神を力説する脳筋のビジネスパーソンやアスリートや教育関係者は有害だ。武士道を信じられる人=詐欺商法に騙されやすい人といっても過言ではない。

低偏差値は武士道とは日本人が古来から守って来た道徳的概念だと思っている。主君や御家への忠誠を要とする。学芸を重んじて忠義と名誉のために死ぬ事を美徳する、「それこそが日本精神なのだ」と信じて疑わない。

残念ながら「武士道」は武士が存在していた時代にはなかった概念だ。

江戸時代に武士道という用語はあったが武士は将軍や藩主への忠誠が教えられていた。しかし江戸の武士の教えは儒教を根底にしており『葉隠』は藩内でほぼ読まれていない。

江戸における武士道の意味も戦う者の気風や流儀を示していた。鎌倉時代の武士は有力者と主従関係を結び契約が反故にされると主君を変えていた。戦国時代になると働きやすさが重視され御家への帰属意識はきわめて薄かった。

他家が良い労働条件を出せば出奔は当然であり戦術も正々堂々としたものではなく奇襲や暗殺も頻発していた。1人の主君に忠義を尽くすのはほんの一握りの武士だけであった。

武士道が確立されたのは明治時代の中頃からである。日清戦争の勝利で日本は西洋諸国に存在感をアピールしたが警戒心も植え付けてしまった。当時はアジア人を野蛮人とする差別意識が根強かった。

そこで日本を近代国日本として認めさせるには「日本人は独自の道徳を持つ文明的な民族」であると誇示する必要があった。

近代日本国民性をでっちあげるために使われたのが武士道という新概念であった。

国内外に武士道を広めたのは思想家・教育家の新渡戸稲造と哲学者の井上哲次郎であった。

南部藩士末裔であった新渡戸は武士道を普遍的な日本の精神文化とした。

1900年(明治33年)に出版した『武士道』のなかで新渡戸は武士を「武道と芸術を尊び、精神を平穏に保つ術を身に付け、忠義と名誉を重んじる存在」とした。その精神が日本の道徳である武士道になったと紹介をした。

西洋文化との比較を交えて解説を行った『武士道』は欧米で反響を呼んだ。

国内からは武士実態に反すると批判を受けた。海外で著名になったため武士道は日本古来の概念として誤認されて広まった。

翌年に井上は『武士道』を出版した。

国家主義者であった井上は武士道を西洋に匹敵する日本固有の伝統と考えて主家再興のために戦った戦国武将山中鹿助がその始祖であるとした。

1905年(明治38年)には各界の著名人と合同で『現代大家武士道叢論』を出版して武士道の啓蒙に励んだ。

日清戦争後から日露戦争終戦にかけて国内外で武士道ブームが起こった。

明治の世界情勢のなかで明治の知識人の活動によって「日本人に継承されている伝統としての武士道」という印象を確立させた。

しかし武士道が現代の形になるのは昭和からだ。大日本帝国軍はアジア進出を目論み武士道を戦意鼓舞の手段として利用した。『葉隠』が全国規模で出版され哲学者和辻哲郎により献身と死の美学を解く書物と紹介された。

『葉隠』の「死ぬ覚悟で生きる事」というニュアンスを「軍部により忠義のために命を差し出すイデオロギー」に変換した。太平洋戦争敗北後も思想の一部にこのマインドが継承された。

組織や集団に忠義を尽くして自己犠牲的に振舞う事を良しとする武士道精神は近代日本政府と文化人たちの蛮行プロパによってつくられ完成したのだ。

武士道は国内外の政治情勢と国内勢力のご都合主義で形成された新しい概念であった。武士のイメージは小心者の大日本帝国が起源をでっちあげて西欧列強に誇示するためにつくったありもしない精神教化プロパだった。

(結論)

武士道というのは概ね20世紀の概念と云ってしまって差し支えない。特に大日本帝国が壮大な勘違いコースに入る日清戦争と日露戦争間に武士道ブームが起こるのは必然だろう。

新渡戸稲造や井上哲次郎が武士というものをでっちあげた。皇国史観を強化して精神教化教育で臣民を意のままに操る大日本帝国の目論見が見える。戦後も体育会系のブラック企業やカルト宗教と見事にマッチングするのが武士道の本質だ。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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