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清帝国崩壊の流れ

清朝は1636年に満州に建国された中国最後の統一王朝であった。

首都は盛京(瀋陽)、後に北京に遷都した。

中国東北部にルーツのある女真族(満州族)が建国した国であり1616年にヌルハチが女真族を統一して後金を建てたことに由来する。2代目のホンタイジの時代に清と国名を改めた。

第4代皇帝である康熙帝は、1673年に起きた三藩の乱を鎮圧し台湾を併合し福建省に編入した。1689年にロシアとネルチンスク条約を結んで清の東北部の国境を確定し、北モンゴルを属国として取り込み、チベットを併合した。

1690年に康熙帝が北モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った後、第6代皇帝である乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下に置いた。

これにより黒竜江、新疆、チベットまでの地域がこの時期に清帝国によって領土として確定する。現代中国はこの中国史上最大の国境線を継承している。

乾隆帝の60年におよぶ治世の後、財政赤字の増大や官僚制度の腐敗など清の統治自体にかげりが出てきた。そして1796年から1804年にかけて白蓮教徒の乱が勃発する。

乱そのものは鎮圧されたが、不満をもった将兵らは反体制秘密結社哥老会に加入し犯罪組織と言われる三合会などと組み、1911年に起きた辛亥革命を支える組織に組み込まれていった。

イギリスと清帝国の間の経済関係は深まっていったが、1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争は、イギリスによる清へのアヘンの密輸が原因となった。

清は東インド艦隊によってアヘン戦争に敗北し、衰退する。領土の各所を植民地化された清帝国に対し、国民によって反清運動が広がることになる。

清は反清運動を抑えつつ第12代皇帝である宣統帝(溥儀)を元首とする立憲君主制、議会制度を設置し、近代化を進めた。

その洋務運動の思想となったのが「中体西用」である。これは中国の秩序を本体としてその伝統自体を変えないまま西洋の知識や技術を導入するという考え方だった。失墜した清の権威を回復するためには西洋の技術、軍事技術を取り入れて富国強兵を進めようとした。

しかしアヘン戦争以来、存在感を増すキリスト教や西洋的なものに対して民衆が高まった。

1851年には洪秀全が中心となって大規模な農民の反乱である太平天国の乱がおこる。この乱は外国軍の介入によって滅ぼされた。

1894年に起こった日清戦争の敗北によって朝鮮における宗主権の放棄や台湾の割譲、2億両もの賠償金が課され、清に大きな屈辱を与えた。これが国家体制への反省のきっかけとなり康有為などが近代的な政治体制確立を目指す運動を始めた。

1898年には第11代皇帝である光緒帝の下で「戊戌の変法」という改革が始められたが西太后(せいたいこう)などの保守派のクーデターにより頓挫することとなる。

1900年には義和団事変が起こる。彼らは「扶清滅洋」という目標を掲げ、清を助けるという大義名分からキリスト教徒を襲撃した。北京に入城した義和団は各国の公使館を包囲し、救援要請を受けたイギリスやロシアなど列強8カ国の連合軍との戦闘に突入した。政権の黒幕であった西太后は苦慮の末に連合軍との戦闘を決断し、事件は中国と列強との全面戦争に発展することになった。

戦争は連合軍によって北京が全面占領され、西太后が西安に逃れたことで終結する。翌年には北京議定書が結ばれ、列強からの強い圧力の下、日清戦争の2倍以上の賠償金、公使館区域内への外国軍隊の駐留などが定められた。

これにより中国の半植民地化はさらに進行していった。その結果、清では保守派が後退し、様々な改革が行われることになった。

特に重要なのは隋の時代以来続いていた科挙の廃止である。

新しい官吏養成のため全国に高等教育機関が整備され、新たな教育制度が作られた。改革の一環で海外留学も盛んになり留学生たちは次第に清朝政府に批判的になり彼らから影響を受けた若者も多く生まれた。華僑や華人などの海外移民も清朝政府の反対勢力となっていた。

「中国革命の父」とされる孫文もハワイの兄を頼り、そこで西洋思想を学んだ。

1911年、湖北省の武昌で清からの独立が宣言されると、清帝国全土に反乱が広まった。これが辛亥革命である。ひと月もしないうちに南部のほとんどの省が独立し、1912年1月には孫文を臨時大総統とする中華民国が成立した。

漢の武帝(7代目/建元/BC140年)以来の元号(宣統)は廃止され、民国紀元が導入されるが、現在では西暦が主流である。

6歳の幼帝・宣統帝溥儀は退位させられ清帝国は滅亡した。2000年以上にわたる皇帝(Bc221:始皇帝(秦)~1912:宣統帝(清))による国家運営は事実上終了した。

溥儀は1924年に追放するまでは皇帝として紫禁城で生活しており
後に日本が1932年に建国した満州国の皇帝として即位することになる。満州国は後清とも称されるが実体は日本統治の傀儡国家であり清帝国の延長とは見なされていない。

清王朝(1912年)終焉からロシア帝国(1917年)、ドイツ帝国(1918年)、オーストリアハンガリー帝国(1918年)、オスマン帝国(1922年)が立て続けに滅亡していくことで世界のバランスオブパワーが大きく変化し大英帝国、フランス共和国、アメリカ合衆国、ソ連、大日本帝国などが頭角を現すこととなる。

■参考文献
『滅亡から読み解く世界史』 関真興 実業之日本社

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