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【歴史概要30】第1次アフガン戦争・第2次アフガン戦争・第3次アフガン戦争・近代アフガニスタン

①中東・南アジアの中間点に位置するアフガニスタンは19世紀になるとロシアとイギリスのグレート・ゲーム(東欧南部から中央アジアまでの覇権争い)が繰り広げられる事となった。

②1907年の英露協商でアフガニスタンはイギリスの勢力圏に置くことを確認して一旦決着がついた。イギリスはこの間に2回のアフガン戦争を行って主要民族のパシュトゥーン人の抵抗を受けた。

③1919年にアフガニスタンはイギリスとの第3次アフガン戦争に
勝利して独立する。

しかし王国とはいっても国内は部族勢力が多数存在していて各々の地域を支配しており中央集権とはいえなかった。

④1953年に王族ムハンマド・ダーウードが首相となり近代化を加速化させたが冷戦の影響を強く受ける事となる。

⑤1954年にアメリカはパキスタンと軍事同盟を結ぶが国境問題でパキスタンと対立していたアフガニスタンは同盟から除外された。その後アフガニスタンはソ連に接近するのだがアメリカもソ連牽制を目的としてアフガニスタン支援を行った。

⑥ダーウードは両者の支援合戦を利用して国家の近代化をはかった。保守的な宗教指導者を追放し軍や教育の改革を推進した。追放された保守勢力やイスラーム主義者たちは不満を強めたのでダーウードは一旦失脚した。

⑦アフガニスタンでの勢力拡大をはかるソ連はダーウードをサポートして1973年にクーデターを行った。政権に復帰し王政は廃止された。共和政を樹立し大統領となったダーウードは近代化路線を推進していった。

⑧ダーウードは反対派を弾圧した。支持基盤であったアフガニスタン人民民主党のパルチャム派も弾圧の対象となっていった。ソ連の干渉を嫌うようになると、1978年にソ連は急進派のハルク派をサポートしてクーデターが起こりダーウードは失脚した。

⑨その後新政権による急激な社会主義の流れは国内を混乱させた1979年にソ連とは一線を画したハルク派のアミンが権力を握った。ソ連はアミンのやり方の工作を行ったが失敗した。

軍隊を送りアミンを暗殺してパルチャム派のカルマルを擁立し穏健改革を目指した。

⑩ここで成立したカルマル政権に対して国内の神学者や海外から帰国したイスラーム主義などを中心にムジャヒディーン(ジハードに参加する戦士たち)と呼ばれるイスラム防衛軍が組織されカルマル政権と戦う事になる。

⑪これが冷戦の米ソ代理戦争であるアフガニスタン紛争のきっかけとなった。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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