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【歴史概要95】北方民族・五代十国(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)・宋の文治政治・遼(契丹)・新法

①匈奴帝国に始まり、モンゴル高原には遊牧民の国家が台頭した。5世紀中旬には柔然、6世紀には突厥、8世紀になるとウイグルが登場する。北方民族は脅威であると同時に中国王朝と様々な交渉があった。

②魏晋南北朝時代には五胡の鮮卑が北魏を樹立し安禄山が起こした安史の乱の討伐にはウイグルが手助けをし五代十国時代には突厥系の武将たちが王朝を樹立している。

③10世紀以降のモンゴルや満州で成立する北方民族の王朝は匈奴やウイグルの時代とは様相が変わってきた。遼や金、元、後には清という中国流の王朝名を使い始めた。今までであれば契丹や女真、モンゴルという名称である。

④これらの王朝は二重支配体制を取った。定住民と移動民を分けて支配したのである。そして中国文化を取り入れながら契丹文字や女真文字のように固有文字を作り仏教を信仰した。

⑤中国外交も変化した。遼と北宋は兄弟、金と南宋は君臣というように主従関係を結んだ。

このような遼や金、元や清などの王朝は征服王朝という。

⑥五代十国の混乱を収拾して960年に成立した(北)宋は他の中国王朝と同様に皇帝専制国家であった。ただし唐の時代とは大きく違う。五代十国の50年の歴史から宋の始祖である趙匡胤(太祖)は国のあり方を変えた。

⑦五代十国時代は武断政治が主であった。

唐の時代から節度使(藩鎮)といわれる武士階級が成長していた。唐末に台頭した朱全忠が後梁を建国した。続いて後唐、後晋、後漢、後周(五代)は武人政権で短命であった。

⑧趙匡胤は五代十国の主であった藩鎮から実権を奪った。強引な手段ではなく話し合いをして相手を説得した。科挙を改革して皇帝自らが高級官僚を採用できる殿試を始めた。文人官僚優位の体制を築いた。

⑨これにより形勢戸といわれる新興地主層が台頭する。官僚を出した家は官戸といわれるが同時に知識階級であった。また士大夫ともいわれてこの時代の思想・学問の指導をした。

⑩10世紀初頭に耶律阿保機が建国した契丹族の遼は石敬瑭(せきけいとう)が建国した五代の後晋をサポートした代償として燕運十六州(現在の北京や大同を中心とする地域)を獲得した。

⑪宋はこの地域の奪還をはかって遼と戦った。結局1004年に澶淵の盟(せんえんのめい)を結んで回復を辞めた。宋は遼に歳幣として絹や銀を送った。金とも同じ関係に務めた。

⑫宋の時代は経済発展はしたが矛盾は拡大し北方民族への屈辱的な対応が国家財政を窮乏させた。11世紀に王安石は新法といわれる改革を行った。

⑬この政策は農本抑商策の延長であった。大地主や大商人を抑圧して中小の農民や商工業者をサポートした。

⑭低金利の貸付で農民を助ける青苗法、商人救済の市易法、大商人抑圧のための均輸法、豊かな商人などから免疫銭を取る募役法などがあった。また強兵策として民兵整備の保甲法、馬を確保するための保馬法などもあった。

⑮有産者からは反対意見が強かった。それぞれの支持者は新法派と旧法派という党をつくって対立し政治は混乱していった。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社

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