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小計画主義でいきましょう!

官僚制度や線形人生モデルは大計画主義であり、現実性がきわめて薄い。夢(=産業役割)や自己実現も同様に大計画主義でありきわめてリアリズムを欠いた設計主義である。

次世代を担う〇〇人材の育成や経済成長や産業の活性化という尤もらしい文言は標榜はできても具体的に検証しようがない。評価軸に恣意性を孕むからだ。

線形人生モデルも生まれた時代の社会構造に大きく依拠するだけではなく状況が日々変転していくにもかかわらず本人のベクトルは同じ方向を向き歩き続ける。

夢や自己実現は一度宣言してしまった以上撤回が難しくなるので益々ファンタジックなものになる。

では刹那主義が良いかというとそういうことでもない。刹那主義が健全なインプットとアウトプットの反復として機能するのであれば良いが
だいたいは形式嗜癖主義に陥る。そうこれも下落の大計画主義に嵌るのである。

たとえば日々煙草を吸い、仕事の終わりにお酒を飲む人がいたとする。それは単に悪習となり、日々身体が嗜癖のシャワーを浴びようとするのである。それは刹那主義ではなく、悪習の連鎖でしかないのである。これも大計画習慣に嵌るのだ。

なので大計画主義、中計画主義は、刹那主義の仮面をかぶった悪習連鎖主義は学習として非常に効率が悪く、現実を律しないものだと考える。また大・中計画主義は状況に応じた主意主義行動を妨げ、形式優位の繁文縟礼を生み効率性を蝕むのである。

官僚制が逆機能となりブルシット書類を作成することが仕事だと錯覚する社畜主義や旧約聖書をはき違え自分たちが伝統主義者だと誤認してしまう律法主義などが顕著である。

散々批判しているマナー主義や規律主義も同じである。フォルムに思考を奪取されれば「守株待兎」になる。状況によって善悪/正誤を判断するのではなく形式でしか善悪/正誤を判断できなくなるのである。

悪習連鎖主義は中二病とも相関性が強く自らが記号的な頽廃主義に陥ればそれは「アートなんだ」「太宰治なんだ」と考える美大系サブカルバカになる可能性がある。こちらは「自分は特別だ。天才だ。新しいんだ。」という個性という名の凡庸に支配されやすい。

我々が目指すのは把握できる範囲で計画を立て、ほどほどに計画に乗り、状況に応じて計画を反故にする。

そういう適当な計画の作成と、適当な計画の共有である。これにより柔軟性と主意主義も同居することが可能になるのだ。

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