見出し画像

スタートアップネーション・イスラエル人の考えていること…安息日に出産

こんにちは、イスラエル在住のアザルです。
以前、ユダヤ人にとって安息日がどれほど大切か、ということをご紹介しました。今日は、そんな安息日にユダヤ教の戒律を守る病院で出産をした、私の体験談を書きたいと思います。

まず、最初にお断りしておきたいのは、これは私一人の体験であり、イスラエルでの出産は皆が皆こういうスタイルではない、ということ。
宗教と関係のない病院で、自宅で、その方法も無痛分娩や帝王切開…、100人いれば100人の出産体験があります。

私も3回の出産を同じ病院で経験しましたが、どれ一つとして同じものはありませんでした。
けれど、やはりユダヤ教の戒律を守る病院での安息日の出産がとても印象的だったので、このようにまとめた次第です。ユダヤ人でありイスラエル人である私の夫もびっくりの、宗教的な病院での安息日の出産体験、ぜひ楽しん読んでいただけたらと思います。

金曜日の朝に陣痛が始まったのですが、病院へ行った頃はすでに日もとっぷり暮れて完全に安息日に入っていました。それでも破水、陣痛、ついに出産?!という、あまりに非日常的なシチュエーションに身を置いていたため、安息日に宗教的な施設に近づくということが何を意味するかを、私と夫は全く考えていなかったのです。

安息日に入って間もなく、自動車に乗って病院に到着した事実はスルーされていたと思います。ユダヤ教を中心に据えて生活する人々は、安息日には自動車は運転しないのです。自動車のエンジンをかけて運転するということは、神を覚え安息すべき日に取るべき行動ではないのです。
それでも、命に係わるほど緊急の場合は、その限りではありません。安息日でも必要ならば救急車も走ります。ただ、「救急車で到着するほど緊急でもないのなら、なぜちゃんと安息日に入る前に病院に到着しなかったんだ」、という考え方もあるかもしれません。でも、どんな方法であれ到着してしまえばこちらのものです。入院の手続きに入りました。

入院する前に、アレルギーや慢性病の有無などの健康状態から、「医師の言うことを聞きます」とか、「後に病院を訴えません」とか、いろいろとサインをさせられるのですが、こういった書類、普段はいちいちすべてを読まずに適当にななめ読みして上から順にさっさとサインしてしまうのが一般的です。
ですが、ユダヤ人は、安息日にはペンをもって何かを書いたり、聖書以外のものを読んだり、契約を交わしたりすることも禁止されているため、この無駄に長い書類を上から一文一文を私のために音読して聞かせてくれて、私の返事をひとつひとつ確認して、私の代わりにサインをしてくれる人が入院手続きについてきてくれました。

この、安息日にやってはいけない仕事をユダヤ人に代わってやってくれる人。これを「安息日の異邦人」、ヘブライ語で「גוי של שבת ゴイ シェル シャバット」と言います。

この異邦人、イスラエルではアラブ人だったりユダヤ人でないロシア人だったりするのですが、まあ、健康状態などを聞かれているうちはまだしも、こっちは陣痛が始まって苦しんでいるというのにだらだらと暢気に「医師や看護婦の指示に従わなかった場合は、病院側に医療的な責任はないとみなし…」などと当たり前のことをいつまでも聞かれているとイライラしてきます。しかも、私、ユダヤ人じゃないし。そういえば私自身が異邦人だ!!!

最後にはその異邦人からペンを横取りして、「私も異邦人だから!」と叫んで上から順番に、全部自分でさっさとサインしてやりました。

とにかく安息日中は、この「安息日の異邦人」にとってもお世話になることに。だって、血圧の測定からその記録、ベッドの上げ下げに至るまで、ユダヤ人の看護師さんの指示の元、すべて彼女たちがやってくれるのですから。

そんなやり取りにあっけにとられている夫の驚き(生粋のイスラエル人、一応本物のユダヤ人です。)を完全に無視しつつ、次に手渡されたのは、ベル!「『大草原の小さな家』の学校で先生が鳴らすベル」とでもいえばイメージがわくでしょうか?音楽演奏のハンドベルをもっと大きく武骨にした感じの、取っ手を持って振り回すとガランガラン、と大きな音が鳴る、あれですね。

「安息日中に部屋から看護師を呼びたいときは、緊急ブザーを押さずにこのベルを使ってください。」

そう、安息日には火を起こしてはいけないという決まりが長じて、電化製品のスイッチをOn/Offにする作業も禁止とされているのです。(もちろんそれはユダヤ教を生活の中心に据える人たちの話です。それをやったからといって国家的な力が介入するわけではありません。)

そんなわけで電気で働く仕組みのブザーでなく、手で鳴らすベル。正直なところ、ベルの方が重いし労力も大きいし、「安息していない感」がより高いんですけれど、ポイントはそこではないのでしょうね、きっと。

あっちの部屋でガランガラン。こっちの部屋からガランガラン。真夜中の産婦人科病棟に鳴り響くベルの音…。音の大きさや長さによって、なんとなく異なった緊急度が感じられる気がします。

私の場合はトイレに行くときにベッドを下ろしてもらいたくて何度このベルを鳴らしたことか。赤ちゃんに膀胱を圧迫されているうえに、脱水防止のために生理食塩水の点滴が刺されているため、とにかくトイレが近かったのです。主人が隣にいてくれたのでベッドの上げ下げボタンを押しておろしてもらえばよいようなものの、主人はユダヤ人なのでだめなのです。

思えば私自身が異邦人なので自分がそのボタンを押せばよかったのですが、とにかくその病院には異邦人が入院することはあまりないのでしょうか、私もユダヤ人の扱いを受け、とにかく安息日の禁止事項は守らなければいけないという頭になっていました。

「ああ~、トイレに行きたい!ベッドおろして!」という時はガランガランとベルを鳴らし、看護師さんがすぐ来てくれないのを確認した後さらに鳴らす。こんな感じで待っているとしばらくして看護師さんが「どうしましたか~?」と来てくれます。
(この、「どうしましたか~?」は日本の看護師さんをイメージした意訳です。直訳だと「もう、なんだっていうのよ!」ぐらいが妥当ですかね。)

「トイレ!トイレに行きたいの!お願いベッドおろして!」というと、看護師さんさっそく「わかったわ!ちょっと待ってて。」と言っていなくなります。手の空いている「シャバットの異邦人」を呼びに行くのです。この段階で、私、すでに結構切羽詰まってるんですけどね。
もう、一事が万事この調子。定期的な血圧検査などにしても、看護師さんが指示を出して異邦人を介して検査、記録する。まだるっこしいことこの上もありませんでした。
そしてもちろん携帯電話も禁止。とにかく静かなものでした。

もう一つ、この病院を特徴づけているのは若い女性がいっぱい出産のために来ていること、見舞客の子供の人数が半端なく多いこと、私と同じくらいの年齢(あの頃は30前半)の女性だと7人目とか8人目の出産なんていうことがあまり珍しくもないこと、そして中には母娘そろって出産のために入院しているということもある…などがあげられます。
そうです、「産んで地に満ちよ」の結果がここに表れているのです。

ベッド数が絶対的に足りなくて、廊下に簡易ベッドが並べられ、私を含む何人かはそこに入院していました。(そのうち、廊下にもベッドが収まらないのではないかと思うくらいでした。)

それでも明けない夜はないもので、長男も無事生まれ、シャバットも無事終わり、私のベルは回収されていきました。

この約2年後に長女を同じ病院で産みました。この時はシャバットでもなく、ベッドもあって部屋に入ることができたのですが、また病院が込み合ってきたので廊下にもベッドが出される状態になりました。長女は未熟児で未熟児室に入れられていたので、私は、ついたてを出してくれることを条件に、申し出て廊下に移動。(前回はつい立ても何もなく、廊下にベッドが置いてあるだけでした。)

「まあ、なんて優しいの!」と看護婦さんには感激されましたが、何のことはない、前回の経験から、廊下の端には行き止まりで大きな窓のある良い一角があることを知っていたのです。ついたてに仕切られた、ほとんどだれも来ない1人部屋をゲットしたようなもの。

6人部屋とかだと、お見舞いの時間になるとものすごい量の子供が家族の新しい一員(8番目の子供とかだったりする)を一目見ようと大挙して押しかけたりして、うるさいことこの上ないのです。

その7年後に次男を出産した時はもう病院が増改築され、すっかり近代化した病院では、廊下にベッドを出すということはありませんでした。

イスラエルにはいろいろな属性の人が生活していますが、基本的にはしっかりとした住み分けがなされていて、私や私の主人の友人は99.9%までが世俗派の人たちです。そんなわけで、この出産を機会に、私とは属性の違う世界の人々がどのように「イスラエル」に関わっているのか。新しい世界を垣間見ることができたような気がしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?