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ある日の例え話

子どもの場合

うちの子は真ん中が健常で、上下に発達障害がある。一番上はASDで、一番下はADHD(彼女の場合は出産時の事故も起因して症状がなかなか難しい)
生まれ持った気質や性質によるもの、と理解されがちでもあるが、育てていると解る、脳の信号の遮断のようなものを感じる。確かに、気質や性質で、そんなの性格的な物でしょう?と思われやすい部分でもあるが、全ては脳の問題である。ここで生まれたもの(考え)を脳のあっち側に移動、つまり渡す事ができないでいる事により起こってくるエラーのような物、だと私は捉えている。

でも人として生まれているので、道徳心はある。有り難い事に知能は二人ともしっかりしているので、きちんと話せば、理解もしてくれる。問題行動の中で一番困るのは、常に自分の事が優先になりがちな部分だ。自分を優先するのは悪い事ではないが、他者がいる場合、それをすると迷惑になる、もしくは嫌われる、という事も往々にしてある。そういった場合、私は彼女たちに、なぜそのようになったのかを聞き、考えさせる。状況の把握が出来ていないのに、こうだったから、ああだったから、は、ただの言い訳にしかならない。こうならばそれはしてもよい?悪い?どっちだと思う?のようなやり取りが続く。

わからないけれど現状そうなってしまった、の場合には、たとえ話を用いる。いつもこれをしているので、私はたとえ話のプロのようになってしまった。たとえ話というのは、物をわかりやすく砕いて説明する時に有効で、尚且つ客観的な視点も持つことができるという優れものである。

「例えば、あなたがした事を、誰かにされたらどんな気分になるか」
『いやだ……ぐすん』
「いやだよね。でもそれしちゃったら、次にはどうするの?」
『謝る……』
「そうだよね。謝る、だよね」
『でも許してくれなかったら?』
「許してくれても、くれなくても、自分がほんとに悪かったなーと思えば謝るべきだろうし、それでもそっちも悪いんだぞ!って思う事があれば、自分がしなきゃいけない事の後に、気持ちを伝える。しなきゃいけない事をせずにいて、こうだったらどうしよう、ああだったらどうしよう、は、違うよ。難しいならママが付き添おうか?どっちに転んでも、ママはあなたの味方だし」
『大丈夫。ちゃんと出来る。許してくれるといいな』
「えらい😊」

こんな感じだ。ここで私が絶対にしてはいけない事は、悪い時だけ口添えをする、という事。よい行いをみた時にも
「ねぇ、さっきのあれだけど。自分的には良かった事?悪かった事?」
『ぇ……何か悪い事をした?』
「ううん!最高だなって、見てたw あなた、いい子ね♡」

と良い時にもきちんと同じように褒めないと、口を出して来た=何かしたのだ、として、良かったか悪かったかを尋ねると、悪かった、と条件反射で返答するようになってしまう。考えさせるという事が、重要なので、良い時も悪い時も、同じように。

大人の場合

さて。本題は、ここから。
私の結婚生活は16年続いた。離婚の原因は激しいモラハラにあった。私に全くなんの問題もなかったかと言われたら、それは夫婦間の事なので、ないなんて事はない。少なからず私にも悪い部分はあったと思う。元夫とは恋愛結婚ではない。恋愛をしていたとしたら、結婚は選ばなかっただろう。今となっては子供たちの事を除けば、もう何の関係もないが、思い返すと少しぞっとするな、と思った事を書き留めておこうと思う。誰かの助けになれば幸いです。
※これは決して個人を糾弾する話ではありません。記録として残しておくだけです。

私が悲しんだりする事に無頓着だと気づいたのは、結婚して半年たったくらいの頃だった。私はわかっていて15年を共に過ごしたのだ。長女妊娠中に、向こうには別の女性がいたりもした。それでも後半の酷さに比べるとまだマシだったように思う。結婚してから早半年後に、相手の自己愛性障害を疑って本を読みまくった。年を重ねるにつれ、脳の老化もプラスされるのか、もう手がつけられなくなった。だから離婚した。

あまりに相手のないような状態で、持論ばかりの話が進み、こちらはまるで存在していないかのように勝手な結論を出し、最終どちらが悪いのか、という流れになる。いつもの、決まったパターンだ。何かがあっても夫婦間の事だ、どちらが悪いなんて事にはならない。

話合いになると、お前とは話にならん、と言って逃げてしまう。話にならないのはこちらの台詞である。私の言う事が難解なのかも、と思い、たとえ話をした時の事だ。

「あなたがもし私だったとしたら、逆だったとしたら。そんな風な態度や言葉を受けて、自分だったらどう思うの?」

と聞いた。そうすると、毎回、決まって同じ答えが返ってくる。16年間、答えは同じだった。

『俺はお前のようにはならん』

どういう意味かが理解できなかった。私のようにならない、というのは、何か不満があっても黙って過ごす、という意味なのか、それとも、私のような立場にはならない、という事なのか。毎回、いつその話をしても、決まったようにこのセリフを言われる。インプットされているのかしら、とも思ったが、一語一句間違わないところを見ると、考えて言っている事が見て取れる。そして、その、お前のように、の意味は、後者の方の、立場の話であった。

お前のようにはならないから、なった事もなる事もないし、そんなもんはわからん。

という意味である。私はあなたの妻である。という事は、俺は俺みたいな人間とは結婚しない、と言っているのだ、という事を本人は理解しないまま、結婚生活が幕を閉じた。別の問題の場合にも、全く同じ返答が戻ってくる。

〇〇さんがあなたに騙されたと言っていた、でも、その意見も一理ある、と私は思う。何故、相手の事をわかってあげられないのか、自分が同じ事をされても黙っておくのか、そうした質問にも必ず

俺はあの人みたいにはならないから、わからん。

とそれがまるで愚問だ、と言わんばかりの堂々とした返答がある。聞いているこちらからすると、自分のようなバカとは関わり合いを持たないも、その答えに含む、という事を理解できているのかいないのか、全くわからないし、こうなってくると、もう、何か言うのはよそう、どうせ伝わらない、と思えてくる。

後に、好きな人が出来たから別れて欲しい、と申し入れた際に、裏切り者だと罵られたが、裏切る、というのは、同じように言語を扱い、物事を感じ、ある程度受け入れてくれる相手に使う物であって、私は端から受け入れられて等いなかった。同じように、連れ添って歩ける人と過ごす事の何が悪いのか、それこそ私には理解できない、としか言いようがなかった。

ぞっとしたのは、その、たとえ話さえ、考える余地がない、という部分である。子供たちに発達の障害はあれど、人の心や考える力があった。私の相手には、それがなかった。本当はあるのかもしれないが、とにかく、一番に感じていたのは、この人は自分の信用している人間の話しか聞かない、聞く気がない、という部分だ。私自身が、一度も愛された覚えはない、と言い切れるのはそこだろうと思う。

どう聞いたって、そのうまい話には裏があるから考え直すべきだ、という私の助言には一切の無視を決め込み、私よりも誰かの言う事を聞く。現に、セミナーのCD等はずっと聞いていたので、誰の言葉も届かない、というような事はない。だから、自分が尊敬できる、という人間の言葉しか届かないのかもしれない。一主婦である、金もうまないお前のような社会の底辺のいう事など、聞くべきではない、という風情まで見て取れた。想像力がないと、人を傷つけるばかりだ。

いつも自分自身しか信じていないので、私のいう事は嘘しかない、と言い切り(今でもそのままだがw)ある時に何人かから、あの人は自己愛性ですか?と聞かれた。見る人は見ているな、と思った。医師でもない私が、勝手にそうですよ、というわけにもいかず、そのように見受けられる事は多々あります、とお話をすると、私の元に苦情をおいていかれる方が何人かいた。私は平謝りするしかなく、だからと言って、私の訴えなど耳に届かず、私は疲れた。なんでもいいから、別れたかった。もう、それ一心だった。

子どもがいると離婚を選ぶのは大変な事だけれど、その生活にもし、違和感があるのならば、離れた方が賢明だと思う。案外、暮らしはなんとかなるもので、少し無理は必要にもなってくるけれど、歪を抱えたまま暮らすのは、いずれ全てを破滅させてしまうので、助かれる内に助かって欲しい。

人間の中には、たまに、うんざりするくらいの相手がいる。そういう人に振り回されて、嘆きながら人生を終えるより、それこそ、自分自身を信用し、自分にならば出来る、と思って、新しい人生を手に入れて欲しいと思う。私は、私もよかったな、と思っているし、あちらも、大嫌いな女と離れられたので、良かったな、と思っています。

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