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夜のバス停

木曜、長女が友達と二人で、私の家に遊びに来た。

彼女たちはいつも一緒にいる。高校で出来たというそのお友達は、長女自身がずっと思い描いていた「友達」という形の関係性を築ける相手だという。そのため長女は最近、どことなくルンルンしている。人との距離感が上手に保てず、小三から中三まで不登校だった子だ。場面緘黙も持ち合わせていて無駄に頭がよく、次の展開に対してネガティブな想定しか引っ張って来られない事が原因で、外ではあまり話さない。何も言わければ次の展開は起こり得ない、を熟考した上でのソレらしい。一度の失敗体験が足を引っ張ってしまう性分でもある。なかなか難しい子なので、高校に入学するとなった時、親としてはヒヤヒヤしていた。

彼女たちの馴れ初めは、こうだ。
ある日、学校にあった落書きが目にとまり、それが何かのアニメのキャラクターで、その下に「これ、面白いよね」と長女が書き込んだら、その数日後に返事がついており、暫くは相手が誰なのかわからないまま、その落書きの下でやりとりをしていたそうだ。こうなってくると当然、相手が誰なのかを知りたくなる。周りに聞いて回ったら、ふたつ隣の席に座っていたあの女の子だ!とわかったそう。通信制の高校なので、登校日が全員一致するというわけでもない。だから、学校行事で全員参加の日!をめがけて声をかけ、初めて挨拶をして名前とLineを交換したらしい。なかなか、ロマンティックな友情の始まり。

お友達も長女をとても気に入ってくれて、今では二人して私のところに遊びに来ては、泊まっていったり、私も一緒に出掛けたりもする、そんな仲だ。今まで長女には一人も友達がいなかったのかと聞かれるとそんな事もなく、一番多感だった中学時代にはネットで仲良くなった年の近しい子から年上までの数人がいた。何人かは私も会った事がある。長女曰く、それはそれで楽しかったし、眠れない夜に語らったりもしたけれど、如何せんその子たちは皆、居住地が他県な事もあり、すぐに、遊びに行こう!とは出来ない仲だった。中には、複雑な家庭環境を背負った子も居る。そのため、時が経って大人になって行くにつれ、仲の良かった周りとも、少しだけ関係性に違和感が出始めていたらしい。その部分については、なにも相手だけに限った事ではなく、知らずと自分も変わっていっていたかもしれないし、特に移ろいやすい多感な時期の子たちの事だ。長期的に誰かと変わらない友情を育み続けるのは、暫し難しい事でもある。特に、物理的な距離があると、尚更。

二人でやってくるその姿を見ていると、友達が出来るとは、人生において素晴らしい価値のある事なんだなぁ~と大人の私は、改めて痛感している。家から一歩も出ずに、する事もないからと寝てばかり、夢に逃げ込んでいた人間が、心を許せる友達が出来た途端、次はどこへいこう?等と計画をし、学校でも会いたいから、と、きちんと遅れず休まずに学校に通う。

"この子のこの先、一体どうなるんだろう"だなんて、気を揉むのは大人ばかりで、本人はきちんと、次の道を、行先を探してくる。たまに、人の気も知らないで!と言いたくなってしまうところだけれど、人の気を遣い過ぎるからこその場面緘黙でもあり、外では出せないでいる真の顔をこちらに向けていたのであれば、それはそれで受け止めてやるべきだし、何より、大人の顔色を伺うようであれば、子供らしさが足りない。だから極力、そうした言葉を言わないでいる。

"毎日が楽しい、それが一番よい。誰にとっても。"
私が持つべき感情はその感情で、言ってよいのもそれだけだ。

有難い事に、その良い友達は、驚く程の変化を長女に与えてくれた。なんと、バイトの面接に行ったのだという!理由は、そのお友達と色んな場所に出かけたいし、何より彼女がもうバイトをしているという点が、長女を触発したようだった。同じバイト先ではないけれど、自分も働こうと思ったらしい。何が理由でも、悪い事じゃない。むしろ、善い事。一歩踏み出せるなら素晴らしい事だと思う。後は日常に慣れきってしまわない事。毎日が新しい、そう思えるようになったら失敗もそんなに恐れなくて済むだろう。良いお友達は、彼女自身の過ごし方で、長女の背中を押してくれた。

彼女と過ごすようになってから、長女は素直に自分の気持ちを表現する事が増えたように思う。好きなものに何かと理由をつけては好きだと言わない、のような、少し捻じれた回りくどい状態をあまり見せなくなった。

そんな二人が遊びに来ていた木曜、お友達を先に駅まで見送り、今度は反対側にあるバス停まで長女を送った。お友達を送り終えた道すがら、二人でぽつぽつと話をしながら、夜、バス停まで。

推しのライブは自分のバイト代で行く、や、お友達のどんなところが好き、と、これと言って特段のtopicsがあったわけでもなく、少し夏の翳りを感じつつの夜の散歩、といったところ。その中で、以前仲良くしていた数人の内のひとりである"あの子"の話になった。前までは何かと話題に上っていたのに、今となれば全くなので、どうしているの?と聞いた。"あの子"には、私も会った事がある。

「連絡はとってんだけどね。今年の単位落としたら、来年で高校六年生だって言ってた」

『六年生!?成人しちゃう……!学校と馴染みが悪いのかねぇ……』

「あの子、めっちゃ頭良かったんだよ?今でもたまに話はするけど、ちょっと……最近は話してても、しっくりこないというか、腑に落ちないというか、なんというか……」

同じ友達とは言っても、今は知人程度の付き合いになってしまった、と言っていた。

「パパ活、してんだよね。でもさ、辞めなよって言えないじゃん?」

『なんで?友達なんだから、勧められないと思うんなら意見するのも友達だよ?』

「それはねぇ……わかってんだけど。でも、やめな?って言ったとしてよ?やめたらその分のお金、私が払ってあげられるわけじゃないし」

そこには私が立ち入る事の出来ない様々な事情があるのかもしれない。世の中が簡単に、それを悪い事だ!と善し悪しをわけたとしても、助からない環境や感情がある事も理解している。

『まぁさ……あれだよ……それでも付き合えるところまでは良いお友達でいてあげなね?』

長女は噴き出した。
「普通さ。親だったら、そんな子とは付き合っちゃダメ!とか言うとこなんじゃないの?」
と至極当然な事を言った。だとしたら、私は親失格なのだろう。合格したいとも思わないが、私はどちらかといえば、過去、そう言われる側の人間だった。まだまだ離婚も珍しい時代、うちは離婚家庭であったし、両方の揃っていない家庭の子なんて、と、私自身の事は省かれ、人の持つ肩書や環境だけで爪弾きにされた経験がある。まだまだ若い年代の子達だ。環境が複雑ならば家では安らぐ場所もないのかもしれないし、甘えたい時期に甘えられる人がいないとなると、心情は孤独だ。笑いながら一日の出来事を告げられる相手もいないのかもしれないし、自分の事を心配する人間などこの世にはいない、と気持ちが悪い方悪い方に走ってしまう事もある。でも、残念な事にそういう生き方を自ら選んでしまうと、人はどんどん離れて行く。

孤独は、ひとつ落ちると、水の粒のように他の水と繋がって、大きな大きな島を作る。

『付き合っちゃダメ!だなんて事は思わないし、どんな状況に置かれても、私はあなた自身に、あなたの身の振り方の選択肢があると思ってるから、それを選んでも選ばなくても、全ての責任はあなたにあるだろうと思ってるし。何よりあなたは頭がいいわ。自分から自分を傷つけるような事が出来ない子だもん。でも……あの子、いい子なのに、勿体ない。寂しいね。』

「なんだかんだでさ。うちはパパとママは離婚もしたけど、私はどっちにも大切にされてるし、あの子の辛さをわかってるようでいて、深いとこまでは理解してあげられないってのがでかいかなー、とは、思ってる。私も今まで自分のこと散々聞いてもらったし、あの子が話してくれる事を聞くことはね、出来るんだけど。なんかこう……さ。どうしてもそういう環境にいると、そういう話になっちゃうじゃん?こないだ会った人が~とかさ……最初から最後まで下ネタばっかりとか?(笑)途中から、私これ何聞かされてんだろうなぁ?って思えてきちゃって、うまく笑ってあげられないんだよ。。

だからあんまりこっちからは連絡しなくなっちゃったんだよね。。私が思ってる程、向こうは私の事を、私の考えてるような"友達"だとは思っていなかったのかもしれないなっていう感情は、ある。だって、そんな話を聞かされて、いいんじゃない?って言えるタイプじゃないもんさ、私は。」

『あーなるほどなるほど。まぁ、仕方ないよね。人間の本質なんて、良くも悪くもそうそう変わりようがないんだけど、置かれた環境は一瞬、その人を隠すから……これは誰にでも言える事だけど、変わってったのがもし自分でも、相手が乗り気じゃなかったら、この人変わっちゃったな、と面白くない感じになる事だってあるもんだしねぇ。変わったか、変わってないかなんて、自分ではあんまり気づけないもんなんだよ。だから、きっと、あの子の中ではそのまんまなんじゃないかな?ただ、取り巻く環境が変わっただけ、そんな感覚なんだと思うよ?

頻繁に連絡とる必要もないと思うならそれでもいいとは思うけど、でも、助けて欲しい、聞いて欲しいって話であれば、ちゃんと聞いてあげないとだから、最悪困ったら、ママに振ってくれてもいいわ。対応します!』

「大人っすね……」

『まぁね~♡』

そんな立ち話をしていたらバスが来て、長女は去り際、ありがとう、またLineするから相談に乗ってくれや♡と言いながら、私のグーに自分のグーをくっつけて、帰っていった。

残酷なようだけど、本当にそうなのだ。全ての選択は個人にあって、それが自由というものなのだと思う。その時に選んだ事が後の自分の道を作る。止められて、やめるもやめないも自由であれば、勧められて、やるもやらないも自由。その代わり、自分の責任は自分にしか取れないだけの事だ。自由にはどうしても責任が伴う。何かのきっかけがないと抜け出せないような事は、早めに"後悔"の二文字が来ないと難しいのかもしれない。でも、世の中は捨てた物じゃない、と思いながら生きて欲しい。友達同士であれば、そこまでの責任はないのかもしれないけれど。それでもやっぱり、そうした子にも、どこかに受け皿は必要で、寂しさを埋めようともがくと余計に寂しくなるのだ、という事を理解もして欲しいし、いつかきちんと自分を受け入れてくれる人が出来たその日のために、よい環境に身を置くように自分を律する·徹する事も大切だ。結局、用意された答えは「誰のせいでもない、全てはあなたの責任だ」となるのであれば。

目的地にたどり着きたい時、乗車前にはきちんと路線と時間を調べた上でそのバスに乗る必要があります。何も考えずにバスに乗っても、そのバスはあなたを目的地には運んでくれません。
誰にも、平等に、目的地を選ぶ権利(選択権)があります。

今、あなたを乗せて走っているバスは、あなたをどこへ運んでくれますか?

どうぞ行先まで、見失ってしまわないように。




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